令和2年6月度 教会長のお話

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     令和2年6月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、

    文末に感じたことを書かせていただきます。

     

     今月は、『怠け心に負けない』というテーマを、

     ○ 精進が大事と知りながら、○ 待っている人がいる 

     の2段落でご解説いただいた。

     

     まず、『精進が大事と知りながら』の段落では、

     

     昔の流行歌に、「わかっちゃいるけど やめられねえ」という一節があ

    ました。おもしろおかしい表現ながら、私たちの心のはたらきをみごと

    あらわしています。

     現に私たちは、ともすると、なすべきことを怠ったり、しないと決めた

    ことを、ついしてしまったりします。お互いさま、「わかっちゃいるけど

    ・・・・」と、反省することが少なくないのではないでしょうか。

     ところで仏教では、「常精進(じょうしょうじん)」が大事と教えます。また、

    儒教などの聖(せいけん)の教えでも、常に学び、身を修める努力をつづけ

    ることの大切さが説かれます。それは、人間の心の成長に「これでいい」

    という終わりがないからでしょう。

     一般に仏道は、「この上なくすぐれた道」という意味で、「無上道

    (むじょうどう)」といいます。ただ、私はこの言葉の意味も「たとえ悟ったと

    思っても、そこがこの道の終点ではない。智慧に目ざめる可能性に、際限

    はないのだ」と受けとめるほうが、向上をめざす活力が湧いてくるように

    思うのです。

     だからこそ常精進が大切なのですが、私たちはつい「少しくらいサボっ

    ても」といった思いに負けてしまいます。

    「嬾惰(らんだ)の意(こころ)及び懈怠(けだい)の想を除き 諸の憂悩(うのう)を離

    れて 慈心をもって法を説け」とは、法華経「安楽行品(あんらくぎょうほん)

    の一節です。だれもが抱く、サボりたいとか飽きたという気持ちを釈尊も

    よく理解されていたのでしょう、「心の内から湧いてくるさまざまな誘惑

    や迷いをふり払い、安らかな心で、みずから楽(ねが)って、喜びのうちに精

    進できるように」と、釈尊は私たちにこの品を説いてくださったのだと思

    います

     

     『待っている人がいる』の段落では

     

     「学んで時に之(これ)を習う。また説(よろこ)ばしからずや」。孔子の言葉

    です。子どもが大人を見て「あのようになりたい」と思い、その真似を繰

    り返すように、目標をもって学び習うとき、それが楽しくて仕方なくなる

    という意味です。

     このことは、信仰の世界にもいえます。「笑顔を心がけよう」「感謝を

    忘れない」・・・など、なんであれ、日々の目標や信仰の目的が自覚でき

    れば、あとはその思い(心)を貫くための精進を繰り返す(習う)だけで

    す。それが「習慣」となって身につくことで、喜びはさらに増します。

     そう考えると、自分がなぜ信仰しているのか、なんのために日々精進す

    るのかという、目標や目的をつかむことが、喜びのうちに精進する基本と

    なるのでしょう。

     しかし、それがわかっていてもなお、内心の誘惑に負けてしまうのが人

    間です。ただ、迷うのも楽をしたいと思うのも自然なことで、ときには心

    の逃げ場も必要だと思います。そのとき、目的や目標を忘れなければいい

    のです。

     また、たとえば読経供養にしても、サンガ(同信の仲間)の集まりにし

    ても、決めたことだからといって無理をすることがいいとは思えません。

    体調がすぐれなかったり忙しかったりして疲れたら、休んでいいのです。

    精進をつづけるためにも、無理は禁物だということです。

     「安楽行品」には、「一切を慈悲して 懈怠の心を生ぜざれ」ともあり

    ます。人を思う気持ちが盛んなときは、飽きたり怠けたりする心が生まれ

    ないというのです。どれほど疲れていても、わが子のために労を惜しまな

    い母親の姿が思い起こされますが、それはつまり、「自分を待っていてく

    れる人がいる」と思うとき、人は自己中心の思いから離れ、その人の役に

    立ちたいという願いが湧いてきて、精進の一つ一つが喜びや楽しみに変わ

    るということでしょう。

     日本だけでなく、世界がさまざまな困難に見舞われています。「慈心を

    もって法を説け」とありましたが、みなさんのまわりには、あなたを待っ

    ている人はいませんか。

     

     と、締めくくられた。

     

     コロナ終息に向け、世界全体が一つになって努力しています。まさしく

    「コロナ菩薩」のおかげさまで世界がその一つの目的に向かって協力する

    ことが素晴らしいことと思います。

     今月も会長先生より、「安楽行品」を通して「心の中から湧いてくるさ

    まざまな誘惑や迷いをふり払い、安らかな心で、自ら楽って、喜びのうち

    に精進できるように」との釈尊の思いをしっかりと受けとめ、私たちを待

    っていてくださる信者さんにお伝えさせていただくことをご指導ください

    ました。

     今、おかれた場所(道場)で、自分にできる菩薩行をそれぞれ工夫して、

    今月もしっかりと精進させていただきましょう。

                                  合掌

     

                                                                   立正佼成会 姫路教会

                                   たかとし

                              教会長 吉 田 高 聡

     

     

     

     

                                                      


    令和2年5月度 教会長のお話

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       令和2年5月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、

      文末に感じたことを書かせていただきます。

       

       今月は、『悠々として、心安らかに』というテーマを、

       ○ 妙好人・石見の善太郎  ○ 楽しく仏道を歩む 

       の2段落でご解説いただいた。

       

       まず、『妙好人・石見の善太郎』の段落では、

       

       現在の島根県浜田市に、近重善太郎[ちかしげぜんたろう]という妙好人[みょうこうにん]がいました。江戸時代の、終わり近くのことです。

      妙好人というのは、白蓮華[びゃくれんげ]にたとえられるほど清らかな人柄の、信心深い念仏者のことです。若いころは素行が悪く、村人から「毛虫の悪太郎」と呼ばれていたその人が、やがて阿弥陀さまの信仰に目ざめ、多くの人から「石見[いわみ]の善太郎さん」と敬愛されるようになったのです。

       ある日、その善太郎を信仰仲間が訪ねてきました。本山参りの際に一泊させてくれた同朋で、善太郎は笑顔で迎えますが、その人はいきなり善太郎をどろぼう呼ばわりして、激しく罵ります。着物を盗んで持ち去ったというのです。

       すると善太郎は、身に覚えがないにもかかわらず、「それは悪うございました」と丁重に詫びて、着物の代金を渡したうえ、「何もありませんが、せめて草餅をおうちの人に」と、仏壇に供えた草餅を包んで土産に持たせました。

       信仰仲間が家に帰って、みんなで草餅を食べようとした時です。その家で働く娘が、なぜかうつむいたまま、手にもとりません。「どうして食べないのか」。主人がそう尋ねると、娘は「善太郎さんが盗ったと話しましたが、あの着物を盗んだのは私です」と、罪を打ち明けたのです。

       さて、もしもみなさんが善太郎さんと同じ立場におかれたら、この事態をどのように受けとめ、対処するでしょうか。

       

       『楽しく仏道を歩む』の段落では

       

       この話のように、やみくもに人を非難したり、人の話も聞かずに自己主張したりする人には、できれば会いたくありません。まして、どろぼう扱いされたりすれば、冷静に受けとめられないのがふつうです。

       その意味でも、善太郎さんの対応には感心するばかりですが、では、どうして何も釈明しないまま、善太郎さんは事態を受け入れることができたのでしょう。

       私は、「阿弥陀さまにすべてをおまかせしている」という、善太郎さんの絶対的な「信」によるものではないかと思います。「やましいことは何もない。仏さまはすべてご照覧[しょうらん]なのだ」。そうした、悠々[ゆうゆう]として安らかな気持ちがあればこそ、あのように受けとめることができたのでしょう。

       「いう人もいわれる我ももろともに 同じ蓮[はちす]の台[うてな]なるらん」という道歌がありますが、仏の前ではすべての人が平等ですから、その場で身の正しさを申し立て、相手をやりこめるのはつまらないこと、と考えたのかもしれません。

       法華経の「勧持品[かんじほん]」に「我身命[われしんみょう]を愛せず 但無上道[ただむじょうどう]を惜しむ」という言葉があります。信仰者の強い意志を示す一節ですが、この言葉は、命さえ惜しくないという意味だけではないと思います。いま、この地球に生まれて生きている奇跡に気がつけば、「自分さえよければいい」と自己に執着している場合ではない、生かし生かされあう縁[えにし]に感謝することが大事なのだ、という意味にも受けとれます。

       「但無上道を惜む」は、そのような感謝に目ざめたら、一人でも多くの人と感謝の気持ちを共有しよう、ということではないでしょうか。法華経の教えによって感謝に目ざめた私たちであれば、その教えを人に伝え、生きる喜びと感謝をともどもに味わおうと、一歩を踏み出すことです。

       ただ、それは相手を変えようとか、説き伏せようとするものではないと思います。喜びをもって仏の教えを実践し、人びとと心楽しくふれあうなかで、いま命あることの有り難さに目ざめてくれる人がいれば、それでいいのです。

       先の善太郎さんの話は、「草餅説法」といいます。娘さんの心を解かした妙好人のあたたかさに、悠々として、心安らかに生きる信仰者の神髄を見る思いがします。

       

      と、締めくくられた。

       

       今、世界中が「コロナ」の終息に向かって、取り組んでいます。それぞれの立場の方々が一所懸命努力しておられます。

       特に医療従事者の皆さんの努力こそ「我身命を愛せず」との菩薩の姿に思え、合掌せずにはおられません。仏さまの教えによって救われた我々は、その感謝を、今こそ三宝帰依の精神に込めて、仏さまへの絶対なる「信」を深めるべく、悠々と「即是道場」の会長先生のご指導を実践してまいりましょう。

                                    合掌

       

                                                                     立正佼成会 姫路教会

                                     たかとし

                                教会長 吉 田 高 聡

       

       

       

       

                           


      令和2年5月度 姫路教会行事予定

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          新型コロナウイルス(COVID-19)の対応につきまして

         

        ※ 4月16日に、安倍総理大臣が全都道府県に対し緊急事態を宣言し、

          外出自粛を始めとする緊急事態措置の要請を行いました。

         

        ※ これを受けまして、姫路教会及び但馬道場を6月15日(月)まで

         

          完全閉鎖体制に移行致します。

          

        ※ 新聞・機関誌等の発送については、6月末まで発送を中止致します。

         

        ※ 但し、事態に進展が見られなければ再延長する場合もあります。  

         

         

         

         

         

         

         


        令和2年4月度 教会長のお話

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           令和2年4月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、

          感じたことを書かせていただきます。

           

           今月は、『偏った見方を越える』というテーマを、

           ○ 「自分は正しい」という偏[かたよ]り、○ 仏性をひたすらに信じる 

           の2段落でご解説いただいた。

           

           まず、『「自分は正しい」という偏り』の段落では、

           

           ふつう私たちは、自分の考えや行動が間違っているとは思いません。人から「それは一方的な見方ですよ」と指摘されても、自分が、先入観や色眼鏡でものごとを見ているとは考えないものです。

           それでも、たとえば自分にいつもやさしくしてくれる人の言葉は素直に信じられても、批判的な人の声は端[はな]から否定するのではないでしょうか。自分の感情や都合を大事にするそういう見方や受けとり方を、私たちは多かれ少なかれしていると思います。これはいうまでもなく自己中心の狭い見方です。この見方が高ずると「私の考えが正しい」「自分の判断は間違っていない」といったとらわれや偏見が強くなって、ものごとを正しく見る目がさらに曇ります。

           そこで、そういうものの見方を省みるとともに、自己中心に偏りがちな視野を大きく広げる動機づけともなる、法華経の一節をご紹介しましょう。

          「等正覚[とうしょうがく]を成じて広く衆生を度[]すること、皆提婆達多[みなだいばだった]が善知識[ぜんちしき]に因[よ]るが故[ゆえ]なり」(私が仏の悟りを得て人びとを救えるのは、すべて提婆達多という善[よ]き友のおかげです)

          「提婆達多品[だいばだったほん]」の有名な言葉です。自分を敵視して殺そうとまでした提婆達多のことを、釈尊が感謝の思いをこめてサンガに伝える重要なくだりですが、これは私たちが、偏った見方から大きな見方へと心を切り替える、スイッチのような役割をもつ一節でもあると、私は受けとめています。

           

           『仏性をひたすらに信じる』の段落では

           

           明けの明星の輝きを受けて、釈尊は悟りを得たといわれます。そのとき釈尊のみ心は、おそらく明星輝く中天[ちゅうてん]にまでのぼり、宇宙と一体となって、大いなる真理をつかまれたのです。

           それは、宇宙的視座でものごとを見たということかもしれませんし、明星の輝きが自他の仏性の輝きと重なったということかもしれません。いずれにしても、そのとき釈尊の目には、何もかもが美しく光り輝く仏性そのものという、この世の実相[じっそう]がありありと映ったのではないでしょうか。

           そして釈尊は、提婆達多からの非難や攻撃という厳しい現実に直面する中でもまた、心を天にのぼらせて、広く大きな心で提婆達多と向きあったのだと思います。

           すると、その瞬間に「自分を害する悪い人」と見る自己中心の心が、スッと仏性を信ずる大きな心へと切り替わり、すべてに合掌・礼拝[がっしょう・らいはい]せずにはいられなかった ―― そういう心の切り替えをうながしてくれた提婆達多は、釈尊にとって「善知識」以外の何ものでもなかったといえるでしょう。

          「みんな仏性」という見方に立てば、偏った見方で人を傷つけたり、争ったりすることはありません。人を批判する前に、「そうか、あの人も仏性なのだ」と思い返すきっかけがあれば、偏った見方をして悩むこともないのです。

           ただ、誤解されやすいのですが、仏性を信じるというのは、相手のいいところを見ることではありません。相手をまるごと仏性として拝むことです。すべての仏性をひたすらに信じるなかで、私たちは矛盾や葛藤とも向きあい、人として成長していくのだと思います。毎田周一[まいだしゅういち]師は、「信ずる」ことについて「世には自分が相手を疑っていて/相手が自分を信じないと/小言を言っている人がある」「自分が人を信ずることによって/相手を信じさせること ―― /これを信の大道という」といっています。

           よけいな先入観などをもっていなかった幼いころには戻れませんが、せめて花まつりの日に、釈尊降誕[ごうたん]のお姿を彷彿とさせる誕生仏に接して、純真無垢な心をとり戻し、自他の仏性を深くかみしめることは大切でありましょう。

           

           と、締めくくられた。

           

           今月は釈尊降誕月です。お生まれいただいたおかげさまで、諸法実相の真理をお悟りいただき、人としての実相は仏性であることをお示しいただきました。

           提婆達多品では「悪人成仏、女人成仏」が説かれています、すべての人間が等しく仏性をそなえ、その自覚に立てば、みんな救われることをお示しくださいました。 

           まずは自分の仏性をしっかり自覚し、そして、触れ合う人のいいところだけでなく、すべてを仏性として信じ、拝んでいく、常不軽菩薩[じょうふきょうぼさつ]の姿勢で布教伝道に取り組みましょう。

                                        合掌

           

                                                                         立正佼成会 姫路教会

                                         たかとし

                                    教会長 吉 田 高 聡

           

           

           

           


          令和2年4月度 姫路教会行事予定

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            ※「新型コロナウイルス」への対応のため、今月の教団行事および

              教会における行事予定を、5/15(金)まで一部変更いたします。

              但し、事態に進展が見られなければ再延長する場合もあります。  

             

            ※【一般参拝なし】: 感染拡大を避けるため、参拝をご遠慮ください。

             

             4月 1日(水) 9:00〜  姫路教会発足56周年記念読経供養

                                      【一般参拝なし

             

             4月 4日(土)   9:00〜  開祖さまご命日   【一般参拝なし

                            進級入学おめでとう会 【中止】

             

             4月 5日(日) 9:00〜  降誕会・花まつりキャンペーン【中止】

             

             4月   8日(水) 9:00〜  降誕会の読経供養と啓白文奏上 

                                      【一般参拝なし

             

             4月10日(金) 9:00〜      脇祖さまご命日   【一般参拝なし


             4月15日(水)   9:00〜  釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)

                                      【一般参拝なし

             

             4月29日(水) 9:00〜  緑の美化キャンペーン

                                   【佼成会より参加なし

             

             

             

             

             

             


            令和2年3月度 教会長のお話

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               令和2年3月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、

              感じたことを書かせていただきます。

               

              今月は、『満足できる幸せ』というテーマを、

              ○ 「欲をはなれると」 ○ 「感謝こそ」 の2段落でご解説いただいた。

               

               まず、「欲をはなれると」の段落では、

               

               「よく深き人の心と降る雪は 積もるにつけて道を忘るる」この道歌

              [どうか]のとおり、欲の皮が張っていると、人は、人として歩むべき道を

              いつしか見失ってしまいます。

               今月、創立八十二周年を迎える本会を、開祖さまとともに開いた脇祖さ

              は、逆に、常々「欲をはなれると徳がくる」と話していたそうです。

               欲は自然のものですから、生きるうえでは必要なのです。ただ、必要

              以上に欲が深い人は、「あれがほしい」「これも自分の思うとおりにし

              たい」と私利私欲にとらわれるあまり、人への思いやりが二の次になり

              がちです。心が、「我」=「自分のこと」でいっぱいの状態だからです。

               ところが、何ごとにつけ、ほどほどのところで満足できる人は、人の

              ことを考えるゆとりもありますから、たとえば好物が手に入っても「一人

              で食べてはもったいない。人にも分けてあげよう」という気持ちが自然に

              湧いてきます。そもそも、ほどほどをわきまえている人にとって、必要以

              上のものは欲しないといえましょう。

               そうした人間らしい思慮[しりょ]や、他を思いやる気持ちが行動となって

              あらわれることを、脇祖さまは「欲をはなれると徳が来る」といったのだ

              思います。

               

               「感謝こそ」の段落では

               

               法華経の「見宝塔品[けんほうとうほん]」に、法華経の教えを学び、実践する

              人は、ほんとうの意味で精進する人であって、「是れを戒[かい]を持[たも]

              頭陀[ずだ]行ずる者と名[なづ]」とあります。

              辞書によれば「煩悩[ぼんのう]を振るい落とし、払い除く」のが「頭陀」の

              意味で、一日一食を守るとか、ボロ布で作った衣を着るなど、そのための

              精進が「頭陀行」です。

               頭陀行といえば、「頭陀第一」と呼ばれた摩訶迦葉[まかかしょう]が思い浮か

              びます。摩訶迦葉は「衣や食や寝床などに、いっさい文句をいわず、満足

              する者である」と伝えられています。

               現代の私たちには、実践するのが難しいように思えますが、「何ごとに

              対しても、不足を口にしないで満足する」というのは、授かったものに感

              謝して、自分勝手な「よしあし」をいい立てないということです。それに

              頭陀行をごく簡単に「少欲知足[しょうよくちそく]」と説明する文献もあります

              から、欲を少なくして足ることを知る生き方、与えられたものをできる限

              り素直に受け容れて、感謝のうちに暮らすことは、私たちが日ごろから心

              がける姿勢と重なるものです。

               また、自分自身の容姿などについて、それがなんであれ「よしあし」を

              いうのは、「自分の命に対する不殺生戒[ふせっしょうかい]をおかすことになる」

              と学んだことがあります。その意味では、何ごとにも「よしあし」をい

              ない生き方は、先に述べた経文の「戒を持ち」ということにも一致しま

              す。しかも、それができるのは、法華経を学ぶことで感謝に目ざめるから

              と受けとめられます。だとすると、法華経をとおして仏の教えを学ぶ私

              ちは、いつでも「満足できる幸せ」のただなかにいるといってもいいの

              もしれません。

               しかし、そのように理解していても、ものごとを感謝で受けとれないと

              きがあります。そうしたときには、合[がっしょう]・礼拝[らいはい]などの「形」

              ら入ることも大切です。

              生きていくなかで、授かったすべてに合掌する ―― そこに感謝と喜びが

              あり、ほんとうの満足と幸せがあるのです。

               

               と、締めくくられた。

               

              今月は創立記念月です。開祖さまが「現実に人を救い、世を立て直そう」

              という熱意で82年前に創立いただき、脇祖さまは、救われていくための

              実践を、「欲をはなれると徳がくる」と菩薩行の意味を分かりやすくお示

              しいただいていました。「欲をはなれる」行の在り方は「頭陀行」。頭陀

              行を簡単に言うと「少欲知足」、すなわち、欲を少なくして足ることを知

              る生き方、与えられたものをできる限り素直に受け容れて、感謝のうちに

              暮らすこと、ともご指導いただきました。

              「見宝塔品」の後半には、「令法久住(りょうぼうくじゅう)」の仏勅が

              あり、末世にこの教えを説くことを願われた、その本仏の願い、開祖さま

              の願いに応えるべく法師の自覚に立って、布教伝道することをお誓いした

              いと思います。

                                            合掌

               

                                                                             立正佼成会 姫路教会

                                             たかとし

                                        教会長 吉 田 高 聡

               

               

               

               

               


              令和2年3月 姫路教会行事予定

              0

                ※「新型コロナウイルス」への対応のため、今月の教団行事および

                  教会における行事予定を一部変更いたします。  

                 

                ※【一般参拝なし】: 感染拡大を避けるため、参拝をご遠慮ください。

                 

                 3月 1日(日) 9:00〜  朔日参り(布薩の日)【一般参拝なし

                 

                 3月 4日(水)   9:00〜  開祖さまご命日   一般参拝なし

                 

                 3月 5日(木) 9:00〜  教団創立82周年記念日一般参拝なし

                 

                 3月10日(火) 9:00〜      脇祖さまご命日   【一般参拝なし


                 3月15日(日)   9:00〜  釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)

                                         【一般参拝なし

                 

                 3月17日〜23日     春季彼岸会

                                    【最少人数でご供養のみ】

                 

                 3月28日(土)       感謝のお礼参り  【中止

                 

                 

                 

                 


                令和2年2月度 教会長のお話

                0

                   令和2年2月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。

                   

                  今月は、『生きがいをみつけよう』というテーマを、 

                   ◎ 「お前も、死ぬぞ」 ◎ 生きる意味とは の2段落でご解説いただいた。

                   

                   まず、『「お前も、死ぬぞ」』の段落では、

                   

                   二月は、涅槃会[ねはんえ]の月です。涅槃会は、釈尊ご入滅の日とされる2月15日に、仏教徒がそのお徳をたたえ、仏の教えの学びを深める日ですが、では、ご自身の「死」をとおして、釈尊は私たちに何を伝えられたのでしょうか。

                  私は、「生きとし生けるものは、みな、いつか必ず死を迎える」という実相[じっそう]を示されたのだと受けとめています。

                  仏教では「生死一如[しょうじいちにょ]」といいますが、生きることと死ぬことは、一セットです。生があり、死があってこそ「命」なのです。ところが、私たちはその一方の「死」を、なかなか受け容れられません。多くの人にとって「死」は、恐ろしくて、避けてとおりたいものといえるでしょう。しかし、だからこそ釈尊は、「お前も、死ぬぞ」と、この世の実相を、身をもって語りかけてくださったと思うのです。

                   ただ釈尊は、もちろんご自身の死をとおして、そのことだけを教えているわけではないと思います。生まれては死に、死んでは生まれ、という「いのち」の大きな流れのなかで、私たちが人としてこの世に生まれ、生きる意味をも教えているといえないでしょうか。つまり、ただ死ぬためだけに生まれてきた人は、一人もいないということです。

                   法華経の法師品[ほっしほん]に「衆生を愍むが故に此の人間に生ずるなり」とあります。この経文に照らせば、悩みや苦しみの絶えない私たち人間を見かねて、釈尊がこの世にお出ましになったと受けとめることができます。そして、それは釈尊だけではないはずです。そのことをふまえて、つぎに私たちの生きる意味について考えてみましょう。

                   

                   『生きる意味とは』の段落では、

                   

                  法師品には、苦しみの多いこの世に、私たちは願って人間として生まれてきたというのです。見方を変えると、苦難もあれば喜びもある娑婆[しゃば]世界だからこそ、そして、私たちが真理や実相をつかむことのできる人間であればこそ、いまここに生きているということになります。

                   身近な人や家族、あるいは自分が、病気をしたり、亡くなったりするのは、ほんとうにつらく、悲しいことです。ただ、そのつらさや悲しみやおそれを心底味わうと、真実を見る目が開かれます。それは、苦しみ、悲しみ、つらさそのものが、救いのいとぐちになるということです。

                   そして、ここでいう「救い」というのは、たとえ人生のどん底であえいでいるときでも、そこに生きる意味や生きがいを見出し、前向きの力に変えていくことです。

                   救いとか生きがいといっても、おおげさに考えることはありません。ささやかでも、あなたにしかできないことを喜びとして、それがまわりの人に喜ばれる、といったことです。それが、生きる意味や生きがいの核心ではないでしょうか。

                   私たちは、運命という自分ではどうにもならないことを、一つ一つ受け容れながら、そのつど前向きな価値を見つけて生きていくことが大切なのです。

                   それは、悟りとも気づきともいえるものですが、その繰り返しが人生なのでしょう。良寛は「世の中に何が苦しと人問[と]はば 御法[みのり]を知らぬ人と答えよ」と詠んでいますが、仏の教えをいただく私たちは、いつ、どのようなときも、生きがいをもって生きる法をすでに頂戴しているのです。

                   

                  と、締めくくられた。

                   

                   「佼成新聞」(1/5付)、「御親教」のお書初めで、「尋常」(つね日ごろをたずねる)。私たちは、何のために信仰をしているのか、つねに足元をふり返ることが大切と、会長先生からお示し頂きました。また、信行方針の「即是道場[そくぜどうじょう]」にもふれられ、その精神は、困難に出遭ったときには「人間として成長するきっかけを頂いた」「ここが踏ん張りどころだ」という受け取り方をし、身を置く所すべてが道場と思い、目の前のことに最善を尽くすこととご指導頂きました。

                   今月は、節分を迎えます。いよいよ七赤金星の年になりました。あらためて、お互いの今年の精進目標を設定する参考に法師品の「願生此間」この世に生まれてきた意味の自覚と、「五種法師[ごしゅほっし]」の実践を確認させて頂き、今月といわず、今年一年、一所懸命精進させて頂きましょう。

                                                合掌

                   

                                                                                 立正佼成会 姫路教会

                                                 たかとし

                                            教会長 吉 田 高 聡

                   

                   

                   

                   


                  令和2年2月度 姫路教会行事予定

                  0

                     2月 1日(土) 9:00〜    朔日参り(布薩の日)

                     

                     2月 2日(日) 9:00〜    節分会

                     

                     2月 4日(火)   9:00〜    開祖さまご命日

                     

                     2月10日(月) 9:00〜            脇祖さまご命日

                     

                     2月14日〜15日        本部(涅槃会)団参


                     2月15日(土)   9:00〜    涅槃会(布薩の日)

                                     〔吉田教会長:お説法〕

                     

                     2月28日(金)         感謝のお礼参り

                     

                     2月29日(土) 15:00〜    新宗連兵庫県協議会学習会

                     

                     2月29日〜3月1日       本部団参

                     

                     

                     


                    令和2年1月度 教会長のお話

                    0

                       令和2年1月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、

                      感じたことを書かせていただきます。

                       

                      今月は、『ほんとうの自分に帰る』というテーマを、◎ 一年をどうすご

                      すか ◎ 素直に、謙虚に の2段落でご解説いただいた。

                       

                       まず、『一年をどうすごすか』の段落では、

                       

                      「かたちなき時間といへど一年が ゆたけきままにわが前にあり」(佐藤

                      佐太郎)という歌があります。新たな年を迎えた私たちの前には、まさに

                      豊かで、まっさらな「時」が広がっています。

                       そして、この一年を真に豊かなものにするのは、ほかでもない、私たち

                      自身です。日々に出会う人やものごとは、すべて、自分が因となり、縁と

                      なって生じているものです。さらにいえば、遠い世界のできごとでさえ

                      も、自分と無縁のことは一つもないと受けとめれば、どのような一年にす

                      るかは、すべて自分にかかっているといえるのです。

                       それはまた、一年をかけて自分をどのように成長、進化させていくかと

                      いうことでもあるでしょう。

                       さて、法華経の「授学無学人記品[じゅがくむがくにんきほん]」は、釈尊が一子・

                      羅睺羅[らごら]や、侍者としてつねに付き随う阿難[あなん]に対して授記を与え

                      る章です。羅睺羅の授記[じゅき]に際して、釈尊は「羅睺羅の密行[みつぎょう]

                       唯我のみ能くこれを知れり」と称えています。増谷文雄先生は、羅睺羅

                      について、舎利弗[しゃりほつ]のような智慧[ちえ]に恵まれているわけでもなく、

                      富楼那[ふるな]のように雄弁でもなかったけれど、「彼を見守る人々の苦心

                      と、彼じしんの必死の努力によって、密行すなわち教団のさだめをるこ

                      とにおいては、もっとも綿密な修行者」にまで成長したと述べています。

                       舎利弗や富楼那のような智慧や才能の持ち主を尊敬する一方で、特別な

                      才に恵まれていなかった羅睺羅に対して、共感を覚えるのは私だけではな

                      いと思います。そして、私たちが自身の成長や進化を考えるうえで、羅睺

                      羅の努力とはどのようなものであったのかも気になるところです。

                       

                       『素直に、謙虚に』の段落では

                       

                       「密行第一」が羅睺羅に対する尊称です。しかし、そう称えられたの

                      は、舎利弗をはじめとする先輩たちの指導や助言を素直に聞き、謙虚に

                      なって、人が見ていないときでもひたすら教えを学び実践しつづけたから

                      だと、私は思います。釈尊の長男として生まれ、世俗にあったときには、

                      父である釈尊に「王宮の財産を私にください」と語った羅睺羅が、出家し

                      て法を継ぐことが人生の大事だとわかった時から、身を慎み、常に「素直

                      であろ「謙虚であろう」と心して、ただただ静かに精進を重ねる姿

                      が、「密行」、つまり羅睺羅の努力だったと思うのです。

                       そこには、財を貪る心も、自分の境遇を恨む思いも、釈尊の肉親である

                      ことを驕る気持ちもありません。「密行」を重ねるなかで、羅睺羅は全て

                      の人が生まれながらに授かっている仏性の有り難さにめざめ、貪・瞋・痴

                      などの煩悩を離れた、「ほんとうの自分」に帰ったということです。

                       そしてだれもが、その真実の自分に帰ることができます。お互いさま、

                      素直さと謙虚さを忘れず、一日一生のつもりで、精いっぱい明るく和やか

                      な一年にしてまいりましょう。

                       

                       と、締めくくられた。

                       

                      「法華経」は「仏性の自覚と菩薩行の実践」が説かれていると教えていた

                      だいています。

                       会長先生は、昨年から「佼成」のご法話で、法華三部経一品一品を丁寧

                      にご解説頂き、釈尊の目の前の人一人ひとりをいかに救うかという思いを

                      具体的に教えていただきました。

                       今年の初めに「開三顕一」の最後、「授学無学人記品」によって、仏性の自覚に立った立場で、いよいよ、法師としての実践を誓願するために、羅睺羅の「密行」をお示しいただいたと受けとめます。『素直に、謙虚に』の段落の内容をしっかりとかみしめ、今年も、「惜しみなくつながろう〜菩薩を育てる苗代となろう〜」のマザープログラムを実践し、教団100周年・教会60周年に向け、教会一丸となって布教伝道に取り組みましょう。

                                                    合掌

                       

                                                                                     立正佼成会 姫路教会

                                                     たかとし

                                                教会長 吉 田 高 聡

                       

                       

                       

                       


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