令和元年7月度 姫路教会行事予定
7月 1日(月) 9:00〜 朔日参り(布薩の日)
19:00〜21:00 夜間朔日参り(当番:加西)
7月 4日(木) 9:00〜 開祖さまご命日
7月10日(水) 9:00〜 脇祖さまご命日
7月15日(月) 9:00〜 盂蘭盆会
釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
7月21日(日) 姫路教会・参議院選挙の投票所
7月28日(日) 感謝のお礼参り(各支部)
7月 1日(月) 9:00〜 朔日参り(布薩の日)
19:00〜21:00 夜間朔日参り(当番:加西)
7月 4日(木) 9:00〜 開祖さまご命日
7月10日(水) 9:00〜 脇祖さまご命日
7月15日(月) 9:00〜 盂蘭盆会
釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
7月21日(日) 姫路教会・参議院選挙の投票所
7月28日(日) 感謝のお礼参り(各支部)
6月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『仏の教えを習い、学ぶ』というテーマを、
○ 「習学」は日常のなかに ○ 実践してこそ「習学」 の2段落でご解説いただいた。
まず、『「習学」は日常のなかに』の段落では、
〇法華経の「方便品」には、「学習」とよく似た「習学[しゅうがく]」という言葉が見られます「諸仏の法是[かく]の如く 萬億の方便を以て 宜しきに随って法を説きたもう 其の習学せざる者は 此れを暁了[ぎょうりょう]すること能わじ」(㊂P.82.3~4) 仏は、たくさんの手だてを使って、常にそれぞれの人にふさわしい法を説いているのですが、「習学せざる者」は、そのことに気づくことができないというのです。逆にいうと、「習学」をすれば、いつでも、そのときに自分に必要なお諭[さと]しに気づけるということです。
○仏が、私たち一人ひとりに、そのときその場にふさわしい法を説いているというのは、たとえば爛漫[らんまん]と咲くエゴノキが、ある人には生滅変化[しょうめつへんか]する無常の理[ことわり]を気づかせ、またある人には「いま」を精いっぱい生きる大切さを教える「声」を発しているということでしょう。こうした自然の摂理[せつり]をはじめ、さまざまなできごとの中に真理を感じとり、仏の声を聴こうとすることで、私たちは、自分の思い上がりや欲得ずくの考えを反省したり、生きる勇気を得たりして、また新たな一歩を踏みだします。その繰り返しを「習学」というのです。
『実践してこそ「習学」』の段落では
日々、私たちの周囲で起こるできごとは、仏が「万億の方便」を駆使して説く法にほかなりません。受けとめようとする心があれば、だれでもそれに気づくことができます。
ただ、「習学」は知識を得るものというよりも、実践を繰り返すなかで「仏の教えにそった生き方を身につけていく」ものです。たとえば、身近な人と仲たがいをしたとき、相手を責める前に「思いやりの足りなさを教えられているのかな」と学ぶ気持ちになると、素直に謝ることができるように、たとえ困難なことに直面しても、そのことから「自分は今、何を教えられているのか」を学び、前向きな実践につなげて、その生き方を自分のものにしていくのです。
とはいえ、いつでも、どのようなことも、それを仏の説法と受けとめられるほど、心が安定している私たちとはいえません。気づいたことが、すっと胸に落ちるときもあれば、疑問や迷いが心に渦巻くこともあります。 そういうとき、迷った心を再び仏の教えに向かわせるのが「ご供養」や「導き・手取り・法座」です。本会では、この二つに「ご法の習学」を合わせた三つを「基本信行」としていますが、ご供養や法座修行も「ご法の習学」の一環ですから、信仰に根ざした生活すべてが「習学」の二文字に集約されるといえましょう。
では、どうして私たちがこのように「習学」できるのかといえば、先の経文の前段に「但一乗の道[どう]を以て 諸[もろもろ]の菩薩を教化[きょうけ]して 声聞[しょうもん]の弟子なし」(㊂P.81.9~10)とあるとおり、私たちに菩薩の精神が宿っているからです。それはつまり、だれ一人として自分だけが幸せになればいいと考える人はいないということです。その意味で私たちが人さまの幸せを願って法を伝えることも大事な「習学」の一つで、自他の一体感という大きな喜びと幸せがそこにあるのです。
と、締めくくられた。
今月は、第2段落で大切なことをご指導いただいていますので、全文を掲載させて頂きました。5月号では「苦」と「苦しみ」の違いを教えていただき、自分の思い通りにしたいという我執が苦しみになるので、真理に基づくものの見方、「智慧」を身につけることが重要であることを学びました。よって、ふれるご縁を通してすべてが仏さまの説法、救いであると思えるように、『基本信行』の「先祖供養」「導き・手取り・法座」の実践を通して、ご法の「習学」を深めることの精進に一層取り組むことを決定させて頂きましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
6月 1日(土) 9:00〜 朔日参り(布薩の日)
6月 4日(火) 9:00〜 開祖さまご命日
6月10日(月) 9:00〜 脇祖さまご命日
6月15日(土) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
6月28日(金) 感謝のお礼参り(各支部)
6月29日(土)〜30日(日) 壮年総会受け入れ
5月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『 なぜ、苦しみが絶えないのか 』というテーマを、
◎ 「苦」と「苦しみ」の違い ◎ 「苦」は「智慧」の涌く泉 の2段落でご解説いただいた。
まず、『 「苦」と「苦しみ」の違い 』の段落では、
〇大きな苦しみをかかえたり、苦労を重ねたりすることを「四苦八苦する」などといいますが、この「四苦八苦」が仏教の言葉であることはよく知られています。
〇釈尊はしかし、この「苦」を、いま私たちが一般的に使う「苦しく、つらいこと」という意味で示されたわけではなさそうです。「苦」の語源は「思いどおりにならないこと」を意味する「ドゥッカ」という意味ですから、先の八苦はどれも、「自分にはどうすることもできないこと」を示しています。ところが、それを「なんとかしたい」と望み、そのことにとらわれて諦めきれないと、心に「いやだ」とか「つらい」といった感情が起こってきます。そのとき「苦」は、身心を苛[さいな]む「苦しみ」に変わるのです。
このような苦しみの絶えない人間の様子を、法華経では(「経文略」)「欲にとらわれているから、苦しみが絶えない」と説き、さらには(「経文略」)思いどおりにならない事実を受け入れることができないために苛立[いらだ]ち、あくせくして、苦しみを深くする私たちの心のありようを戒[いまし]めるのです。
『 「苦」は「智慧」の涌く泉 』の段落では
〇私たちのまわりでも、たとえば借金返済の苦しみから逃れようとして、さらによそから借金を重ねる、といった人の話を耳にします。まさに「苦を以て苦を捨てんと欲す」で、それではいつまでたっても苦しみはなくなりません。
西行法師[さいぎょうほっし]は「こりもせずうき世の闇にまよふかな身を思はぬは心なりけり」と嘆き、欲望にとらわれ、ふりまわされて苦しむ私たちに、「どうしていつまでも大事なことに気づかず、心を改めないのだろう」と投げかけています。
その大事なこととは、直面した「苦」を「苦しみ」へと増長させるのではなくて、「苦」との出会いは「智慧[ちえ]」に目ざめるチャンスでもあると気づくことです。苦しみや悲しみ、怒りやつらさにもつながる「苦」も、そこに感情をまじえなければ「無記[むき]」、つまり善でも悪でもないのですから、それをどのように受けとめ、制御するかで、その後の人生に大きな違いが生まれてきます。
〇「苦」から逃げずに、それをそのまま受け入れる覚悟ができると、その「苦」は「智慧」の湧き出る泉ともなります。私たちが本来もっている「智慧」がはたらきだすには「苦」が必要だったと受けとれば、「苦」は楽しみに向かう大切な道しるべとなり、その「苦」も抜き去られるのです。
これが、「苦」があっても苦しまない生き方といえるでしょう。そしてそのことを、仏教では四諦[したい]の法門など数々の教えで伝えています。ただ、それらを学んでも、私たちはいざ苦に出会うと悩み苦しむのですが、それでもいいと思うのです。苦しい思いをしなければ、仏さまの教えという「幸せにつながる道」を歩んでいないかもしれないのですから。
と、締めくくられた。
今月は、「苦」のとらえ方をご指導いただきました。やはり自分の見方・考え方が、現象を善悪でとらえ、自分の都合に合えば「善」、不都合であれば「悪」ととらえているということに気づかされます。
特に第二段落で、“「苦」から逃げずに、それをそのまま受け入れる覚悟ができると、その「苦」は「智慧」の湧き出る泉ともなります。” と説かれ、四諦の法門「苦諦」では、『人生苦から中途半端な逃げかくれをしないで、その実態を直視し見極めること』と解説いただいています。
方便品の「開示悟入[かいじごにゅう]」から仏知見[ぶっちけん]の道に入ることで、「苦」を受け入れられるようになれると、学ばせていただいています。また、方便品では、自らの「仏性」に気づくことの重要性も説かれています。
あらためて、自らの信仰の目的をかみしめ、仏知見を身につける精進をさせていただこうと、決定させていただきます。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
5月 1日(水) 9:00〜 朔日参り(布薩の日)
5月 2日(木)〜7日(火) 自由参拝
5月 4日(土) 9:00〜 開祖さまご命日
5月10日(金) 9:00〜 脇祖さまご命日
5月11日(土) 第70回姫路お城まつり
5月15日(水) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
5月19日(日) 第50回青年の日
5月28日(火) 感謝のお礼参り(各支部)
4月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『 香る風のような人に 』というテーマを、
◎ 心に春風が吹きわたる ◎ みんな「徳のある人」 の2段落でご解説いただいた。
まず、『 心に春風が吹きわたる 』の段落では、
〇日本の春の情景を美しく表現した歌の一つに、滝廉太郎作曲による「花」があります。
〇その春の花の代表格は桜ですが、桜の花を見るよりも先に、梅や沈丁花[じんちょうげ]や辛夷[こぶし]の甘い香りをのせた 風に、春が訪れた喜びを実感する人も多いのではないでしょうか。
その喜びにも通じる言葉が、法華経の「序品[じょほん]」にあります。「栴檀[せんだん]の香風[こうふう] 衆の心を悦可[えっか]す」 ―― この一説を開祖さまは、「仏さまの香風が衆生の心の中に入ってくると大歓喜[だいかんぎ]が生じる」と、簡潔に説明しています。
仏の教えに出会えた私たちは、その教えを聞き、学び、実践していくなかで、数々の気づきを得ます。
〇そうしてほんとうに大切なことに気づき、悩みや苦しみから解き放たれた悦びを、私たちは「教えによって救われました」と、思わず口にします。それが、開祖さまのいう「大歓喜が生じる」でしょうし、そのときその人は「悦可」しているのです。
〇私たちは、仏さまにお目にかかることはできません。ただ、たとえば本会の大聖堂などで、教えのなかに仏の慈悲を感じとり、その教えを実践することによって生きる喜びに目ざめた人の体験説法を聞くと、私たちもまた悦びを覚えます。それは経文のとおり、教えの尊さが胸中に吹きわたるからだと思います。
『 みんな「徳のある人」 』の段落では
〇越後の良寛[りょうかん]さんは、この「栴檀の香風 衆の心を悦可す」を学び、「一生成香[いっしょうせいこう]」(一生、香りを残す)を座右の銘にしたといわれます。「生涯、人の心をあたたかく包み、和ませ、悦びを与える香風のような人でありつづけよう」と思い定めて、そのとおりに生きたということです。
ただ、法句経[ほっくぎょう]に「徳のある人びとの香りは風に逆らっても進んでいく」「徳のある人はすべての方向に香る」とあるように、人の心を「悦可」するには「徳分」が必要という見方もできそうです。修養や善行の積み重ねが「徳分」を身につける決め手なのかもしれません。
しかし、そういいきれないとも思うのです。私たちがいま、この世に一つの命を授かって生きているというのは、大自然の徳はもちろん、先祖や親の徳をいただいているからです。一人ひとりが、すでに豊かな徳を具えているということです。ですから、私たちは自らの「徳分」に気づけばいいだけです。気づいて、それを成長させれば、だれもが香風を運ぶ「徳のある人」になるのです。
そこで大切なのは、「有り難い」という気持ちです。なにごとにも感謝を忘れない素直で謙虚な人には、自然に人が引き寄せられます。そのうえで示す、明るく、やさしく、あたたかい態度や言葉は、持ち前の徳をいっそう香らせることでしょう。
〇釈尊降誕月[ごうたんづき]であるこの4月をもって、平成が改元されます。これは、平和を醸成[じょうせい]する務めがマンネリに陥らないよう、心を新たに切り替える機会をいただいたものと私は受けとめています。仏の教えという香風を運ぶ生き方が、いっそう大切になります。
と、締めくくられた。
今月は、釈尊の降誕を感謝でお祝いすると同時に、そのおかげさまで悟られた真理「諸法実相」を理解し、自らの “ 仏性 ” を自覚し、成仏をめざした精進をさせていただけます。そして、ご縁になった方々にも、自らの仏性に気づいていただけるふれあいを心がける、そのことに本気で、本腰で取り組んでいく決定を誓わせていただくことが大切である。
本文では、「序品」に触れていただき、いよいよ実相の解明がなされる方便品を、来月はご解説いただけると思いますが、弥勒菩薩に向かって文殊菩薩が、「世尊はきっとこれから『妙法蓮華』の教えをお説きになるに違いありません。みなさん、合掌して一心に待っておいでなさい」とお説きになります。これから説かれる真理を素直に信じて、成仏への目標に向かって真っすぐに精進いたしましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
4月 1日(月) 9:00〜 朔日参り(布薩の日)
19:00〜21:00 夜間朔日参り(当番:高砂)
4月 4日(木) 9:00〜 開祖さまご命日
4月 6日(土) 8:40〜 降誕会
13:00〜 花まつりキャンペーン
4月7日〜8日 団参
4月10日(水) 9:00〜 脇祖さまご命日
4月14日〜15日 団参
4月15日(月) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
4月27日(土) 感謝のお礼参り(各支部)
3月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『 自他の幸せを願う心 』というテーマを、
◎ 「仏の子」だからこそ ◎ 生きた経典として の2段落でご解説いただいた。
まず、『 「仏の子」だからこそ 』の段落では、
〇私たちはみな、だれもが、自分や家族の幸せを願っています。そして、同時に他人の幸せを願う心も、私たちは持ち合わせています。
無量義経に「広大な慈悲の心をもって人びとの苦しみを除き、災難から救ってあげることができる」とあります。みなさんには、その自覚があるでしょうか。
〇つまり、「仏の子なので、人びとの苦しみを除き、災難から救って、安楽な気持ちにしてあげられる」というのです。すると、私たちに「仏の子」という自覚があるかないかが大事になりそうですが、実際にそのような自覚をもって人とふれあっている人は少ないかもしれません。
ただ、たとえば「私たちの命は本来、無常[むじょう]であり、無我[むが]なのだ」ということがわかったら、その人は「仏の子」だと思うのです。三法印[さんぽういん]について自ら学んだり、あるいは人から聞いたりして、「ほんとうにそうだな」と胸に落ちるのは「仏の子」だからです。
〇少しでも「ものごとは変化してやまないのだ」とか、「みんな仏性のあらわれで、この世のすべてが大調和している」と気づいたならば、それは「仏の子」の自覚に違いなく、その人は自他の幸せを願い、周囲に幸せを運ぶ菩薩の一人といえるのです。
『 生きた経典として 』の段落では
〇佼成会では、「入会者即布教者」といいます。経典には「自分がまだ迷いから抜けだすことができていなくても、仏の教えを聞いた人は苦しむ人たちを救うことができる」と、はっきり示されています。
たとえば、友人に強い怒りを抱いていた人が、仏の教えを聞いて「その怒りは、友人を自分の思いどおりにしたいという利己心[りこしん]が原因だった」と内省したとしましょう。そして、そのことで和やかな関係をとり戻した体験談を、人を恨みつづけて苦しんでいる人に話したとき、「私もそのような見方、受けとめ方を身につけたい。気持ちを楽にして、幸せになりたい」と思わせる力がそこにあるのです。
なぜなら、たとえ自分はまだまだ未熟でも、仏の教えが真理にかなっているからです。そして、だれもが人と調和したいと願っているからです。
〇経典にはまた、「この教えは人びとが菩薩行を実践するところにある」とあります。いきいきと明るく生きる自分の姿をとおして、苦悩に沈む人の心に真理の光を届け、安らかな人生に導いていく「一切衆生の良福田[ろうふくでん]」、すなわち幸せを生みだす一人ひとりになっていきたいと思います。
その意味で私たちは、いつでも、だれにも、「明るく、優しく、温かく」の姿勢を忘れないことです。経文を上手に説明できなくても、相手を思いやる姿勢に徹する人は、自他に幸せを運ぶ「生きた経典」となり得るのです。
と、締めくくられた。
1月の「佼成」では「みんな善の根っこをもっている」というテーマで、善根(仏性)の自覚の重要性とその自覚に立つと、 “ 布教伝道 ” への発心が芽生え、まず身近な人の善き縁になろうと、具体的にお示し頂きました(「徳行品:序分」)。
2月のご法話では「人を思いやる心の習慣」というテーマで、人との縁を結ばせて頂くときの、欲得抜きの慈悲かけの大切さをお示し頂きました(「説法品:正宗分」)。
3月は、創立記念日を迎えるにあたり、開祖さまの創立の精神「人を救い、世を立て直す」という願いを、「自他の幸せを願う心」というテーマで、相手を思いやる姿勢に徹する人が、自他の幸せを運ぶ「生きた経典」となるという、実践の大切さでお示し頂きました(「十功徳品:流通分」)。
法華経の開経である無量義経を3ヵ月にわたってご解説頂きました。人としての実相(仏性)を自覚し、皆に備わるそれを、気づいて頂けるよう、努力精進することをお誓いいたします。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
3月 1日(金) 9:00〜 朔日参り(布薩の日)
19:00〜21:00 夜間朔日参り(当番加古川第二支部)
3月 4日(月) 9:00〜 開祖さまご命日
3月 5日(火) 8:40〜 立正佼成会創立記念日(映像配信)
3月10日(日) 9:00〜 脇祖さまご命日
3月15日(金) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
3月28日(木) 感謝のお礼参り(各支部)
3月31日(日) 9:30〜 姫路教会発足55周年記念式典
2月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『 人を思いやる「心の習慣」』というテーマを、
◎ 得は徳に通じる ◎ すべては一つ の2段落でご解説いただいた。
まず、『 得は徳に通じる 』の段落では、
〇街の中で困っている様子の人を見かけたとき、みなさんはどうされるでしょうか。そばに寄って声をかける人も多いと思いますが、気にかけながらも、よけいなお世話かもしれないと、近づくのをためらう人もいることでしょう。私たちはふだん、ものごとを損得勘定で判断し、得にならないことには消極的になりがちです。人は、なかなか欲得ずくの心を超えられないのです。
〇損得の「得」は道徳の「徳」に通じる、といわれます。
一文の得にもならないと思われることであっても、人さまを思うがゆえの実践は、それを行う人の徳分として、人間的な成長など尊い心の財産になります。人として成長したいと願う欲得が、人間性の向上という「徳」を招き寄せるという意味で、「得」は「徳」に通じるということです。
ただ、そのことがわかっていても、困っている人を見て「なんとかしてあげたい」と願う気持ちを実際の行動に移す、その一歩を踏みだす勇気が出ない人もいます。
無量義経に、「憐愍[れんみん]の心を生じ大慈悲を発[おこ]して将[まさ]に救抜[くばつ]せんと欲し、又復[またまた]深く一切の諸法に入れ」(説法品[せっぽうほん])とありますが、これは菩薩に「目の前の人を憐れみ、思いやりの心を奮い立させて、『苦しみから救い出そう』と決心しなさい」と教える一節です。そして、そのためには「自分本位のとらわれや執着を離れて、ものごとの真実を見極めるよう精進することが大切です」と説かれています。
要するに、なかなか損得勘定を捨てられない私たちでも、精進によって欲得ずくの心を超えることができ、それが心の習慣になれば、どのようなときでも損得勘定に惑わされずに、人を思いやる気持ちを自然に行動にあらわせるということです。
『 すべては一つ 』の段落では
〇「雪が降ったら/寒かろう/冷たかろうと/お墓に/傘をさしに行く/幼子亡くした/お母さん」
このような詩の一節を目にしたことがあります。子を亡くした母親の、切ない気持ちがよく伝わってきます。それと同時に、菩薩が人を思いやる心情というのはこういうことではないか、と教えられた気がしたのです。
〇先に述べた、「自分本位のとらわれや執着を離れて、ものごとの真実を見極める」というのは、この母親のように、自分と相手を一つと見ることです。さらに、すべてを一つと見れば、人の喜びや悲しみがよくわかり、そうしてわきあがる憐みの心や慈悲の心に突き動かされて、思いやりを行動に移せるのです。「すべては一つ」という見方によって、思いやりが「心の習慣」になるということです。
以前、開祖さまの生誕地の新潟県十日町市を訪ねた時、公園に建つ開祖さまの胸像が雨に打たれているのを見て、私も師父[しふ]に傘を差しかけた覚えがあります。いつでも、だれに対しても、自然に思いやることができるよう、私もいっそう精進をしてまいりたいと思います。
ただ、至道無難禅師[しどうぶなんぜんじ]は「慈悲して慈悲知らぬとき、仏というなり」と教えています。相手と一つになれば、慈悲をしているといった意識もしないまま、その思いやりがお互いの喜びや心の成長に結ばれていくのです。
と、締めくくられた。
今月は、「無量義経」を引用され、「無量義修学の順序」をお示しいただき、「無量義は一法より生ず、その一法とは実相なり」の内容から、諸法の実相(「自分本位のとらわれや執着を離れて、物事の本質を見極める」)の解明が、「法華経」の課題であり、人としての実相、 “ 仏性の自覚 ” を1月号で会長先生は促してくださいました。
しっかりと法華経を学ばせていただくことの重要性をご指導いただき、あらためて「三つの基本信行」の実践、中でも「ご法の習学」を深めることを決意させていただいた。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡