令和2年3月度 教会長のお話
令和2年3月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、
感じたことを書かせていただきます。
今月は、『満足できる幸せ』というテーマを、
○ 「欲をはなれると」 ○ 「感謝こそ」 の2段落でご解説いただいた。
まず、「欲をはなれると」の段落では、
「よく深き人の心と降る雪は 積もるにつけて道を忘るる」この道歌
[どうか]のとおり、欲の皮が張っていると、人は、人として歩むべき道を
いつしか見失ってしまいます。
今月、創立八十二周年を迎える本会を、開祖さまとともに開いた脇祖さ
まは、逆に、常々「欲をはなれると徳がくる」と話していたそうです。
欲は自然のものですから、生きるうえでは必要なのです。ただ、必要
以上に欲が深い人は、「あれがほしい」「これも自分の思うとおりにし
たい」と私利私欲にとらわれるあまり、人への思いやりが二の次になり
がちです。心が、「我」=「自分のこと」でいっぱいの状態だからです。
ところが、何ごとにつけ、ほどほどのところで満足できる人は、人の
ことを考えるゆとりもありますから、たとえば好物が手に入っても「一人
で食べてはもったいない。人にも分けてあげよう」という気持ちが自然に
湧いてきます。そもそも、ほどほどをわきまえている人にとって、必要以
上のものは欲しないといえましょう。
そうした人間らしい思慮[しりょ]や、他を思いやる気持ちが行動となって
あらわれることを、脇祖さまは「欲をはなれると徳が来る」といったのだ
と思います。
「感謝こそ」の段落では
法華経の「見宝塔品[けんほうとうほん]」に、法華経の教えを学び、実践する
人は、ほんとうの意味で精進する人であって、「是れを戒[かい]を持[たも]ち
頭陀[ずだ]を行ずる者と名[なづ]く」とあります。
辞書によれば「煩悩[ぼんのう]を振るい落とし、払い除く」のが「頭陀」の
意味で、一日一食を守るとか、ボロ布で作った衣を着るなど、そのための
精進が「頭陀行」です。
頭陀行といえば、「頭陀第一」と呼ばれた摩訶迦葉[まかかしょう]が思い浮か
びます。摩訶迦葉は「衣や食や寝床などに、いっさい文句をいわず、満足
する者である」と伝えられています。
現代の私たちには、実践するのが難しいように思えますが、「何ごとに
対しても、不足を口にしないで満足する」というのは、授かったものに感
謝して、自分勝手な「よしあし」をいい立てないということです。それに
頭陀行をごく簡単に「少欲知足[しょうよくちそく]」と説明する文献もあります
から、欲を少なくして足ることを知る生き方、与えられたものをできる限
り素直に受け容れて、感謝のうちに暮らすことは、私たちが日ごろから心
がける姿勢と重なるものです。
また、自分自身の容姿などについて、それがなんであれ「よしあし」を
いうのは、「自分の命に対する不殺生戒[ふせっしょうかい]をおかすことになる」
と学んだことがあります。その意味では、何ごとにも「よしあし」をい
わない生き方は、先に述べた経文の「戒を持ち」ということにも一致しま
す。しかも、それができるのは、法華経を学ぶことで感謝に目ざめるから
だと受けとめられます。だとすると、法華経をとおして仏の教えを学ぶ私
たちは、いつでも「満足できる幸せ」のただなかにいるといってもいいの
かもしれません。
しかし、そのように理解していても、ものごとを感謝で受けとれないと
きがあります。そうしたときには、合掌[がっしょう]・礼拝[らいはい]などの「形」
から入ることも大切です。
生きていくなかで、授かったすべてに合掌する ―― そこに感謝と喜びが
あり、ほんとうの満足と幸せがあるのです。
と、締めくくられた。
今月は創立記念月です。開祖さまが「現実に人を救い、世を立て直そう」
という熱意で82年前に創立いただき、脇祖さまは、救われていくための
実践を、「欲をはなれると徳がくる」と菩薩行の意味を分かりやすくお示
しいただいていました。「欲をはなれる」行の在り方は「頭陀行」。頭陀
行を簡単に言うと「少欲知足」、すなわち、欲を少なくして足ることを知
る生き方、与えられたものをできる限り素直に受け容れて、感謝のうちに
暮らすこと、ともご指導いただきました。
「見宝塔品」の後半には、「令法久住(りょうぼうくじゅう)」の仏勅が
あり、末世にこの教えを説くことを願われた、その本仏の願い、開祖さま
の願いに応えるべく法師の自覚に立って、布教伝道することをお誓いした
いと思います。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡