『私の陀羅尼』への沢山の投稿、誠にありがとうございました。
皆さん、それぞれに、自分の中の仏さまに呼びかける、心の
こもった陀羅尼を考えてくださり、本当に感動いたしました。
それでは、皆さんの陀羅尼をご紹介させていただきます。合掌
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ここで一休み
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(ペンネーム)ハナちゃん
【私の陀羅尼】
やさしく やさしく
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
病気のお陰で周りの方に、いっぱい感謝できました。そして病気は私に優しさを教えるためとご指導を頂き、やさしくなりたいと願って「やさしく やさしく」と決めました。毎日心に「やさしくやさしく」と言って過ごせる有難い日々です。
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(ペンネーム)そよかぜ さん
【私の陀羅尼】
ゆっくり お互いさま そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
普段からせかせかして気がもめるので、ゆっくりの心で思いやれるよう、又いろんな人のお陰さまで過ごさせて頂いていますので、お互いさまの心で、穏やかな心で過ごさせて頂けますように。
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(ハーフタイム)
ティータイムのお時間です
※ 6/21の大聖堂前の蓮の花です。
(撮影者の許可を頂きました)
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(ペンネーム)あすかちゃん
【私の陀羅尼】
やさしい声 そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
声を出す仕事をしていたので、年をとってもやさしい言葉・声で人をあたたかくする。
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(イニシャル)H・I さん
【私の陀羅尼】
何事にも腹を立てない そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
気に入らない事にも腹を立てず感謝で受けとれたら心がおだやかで居られます。腹を立てた後は気分が悪いから。
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(ペンネーム)つぶあんこ さん
【私の陀羅尼】
スマイル そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
笑顔でふれ合って行きたい。そして みんなと一緒に明るく楽しく元気で・・との思いをこめて。
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(イニシャル)S・M さん
【私の陀羅尼】
(急に態度の変わる人に)待ちます そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
何があっても(笑顔でそわか)
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(イニシャル)H さん
【私の陀羅尼】
ほんわか そわか
愚痴は言うまい そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
現状に満足しきれない心がよく出るので、常に感謝の心でいられるようになりたい。
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(イニシャル) K・Kさん
【私の陀羅尼】
感謝 感謝 感謝
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
朝目がさめた時から、夜休むまですべてに感謝です。合掌
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(イニシャル) K・K さん
【私の陀羅尼】
いそがは まわれ そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
いつも忙しそうにしていると、よけいにやっかいな事にまきこまれてしまう事もあるので、ゆっくりと一日を大事にしていきたいと思いました。
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ここで一休み
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(イニシャル) K・K さん
【私の陀羅尼】
おだやか運転 そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
歳も高齢になりました。車にのる時は車に声をかけて・・ おねがいします・ありがとうございました。
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(ペンネーム) てるちゃん
【私の陀羅尼】
おおらかな心で そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
今日一日への健康・お仕事・人との出会いを大事にさせて頂くことに。
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(ペンネーム) てっちゃん
【私の陀羅尼】
気づかい・心づかい そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
現場での仕事の職人さんとの出会いを大切に、心づかいをさせていただく。
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(ペンネーム) ひろやん
【私の陀羅尼】
ほんわか あたたか そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
人とのコミニケーションを大事にさせて頂くには、いつも心と顔にやさしが出来るようにいしきさせて頂きます。
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(ペンネーム) 吉川英治 さん
【私の陀羅尼】
こらえて こらえて 堪忍 そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
怒りやすい性格のため。
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(ペンネーム) こばちゃん
【私の陀羅尼】
笑顔で羽ばたけ そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
コロナで気持ちも暗くなりがちだったので、これから少しでも明るく積極的に行動できるように。
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(ペンネーム) 花々 ( M・H )
【私の陀羅尼】
えみ そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
(幸あれ・よろしく・めでたい)
笑う門には福来る。短気な私ですので・・目標です。 いつでも笑顔で。
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この度、姫路教会長のお役を拝命致しました、小林宏彰と申します。
姫路教会の皆さま、どうぞよろしくお願い申し上げます。
今回の『しらさぎ日記』リニューアルを期しまして、これからは「教会長のコラム」として、私が日頃考えていることや、感動したこと、皆さんと分かちあいたいと思ったことなどをつづっていきたいと思います。
第1回は、『わたしの陀羅尼(だらに)』です。
会長先生はご法話の中で、陀羅尼を「それを唱えれば、心のなかで動き回る貪りや怒りや自己中心の思いを抑えて、自分のなかにある仏の心をはたらかせる力をもつ、呪文のような言葉」とご説明くださり、ご自分の陀羅尼「おんにこにこ はらたつまいぞや そわか」をご紹介くださいました。
また、國富理事長さんは、「楽しく 楽しく 楽しく」をご自分の陀羅尼とされていることをご紹介くださいました。
そこで、私も自分の陀羅尼を持たせて頂きたいと思い、考えました。
私の陀羅尼は、『ほんわか そわか』と、『思いやり運転 そわか』とさせて頂きました。
『ほんわか そわか』は、私が初めて教会長のお役をいただく時に、会長先生から頂いたお言葉「ほんわかした人になってください」にちなんでつけさせて頂きました。
『思いやり運転 そわか』は、車を運転する時に、つい我が出てしまいがちになるので、それを抑えるためにつけさせて頂きました。
「そわか」という言葉は、自分のなかの仏への呼びかけとなり、仏心に立ち返るスイッチになるということなので、人と会う時や車の運転をする前に、この『ほんわか そわか』と『思いやり運転 そわか』を唱えさせて頂いています。
ついつい忘れてしまうこともありますが、『ほんわか そわか』は、自分の心を落ち着けて、優しい気持ちを持つのに役立っていますし、毎日「今日も、よろしくお願いします」と車に語りかけ、吊るしてあるお守り(写真)をさわって、『思いやり運転 そわか』と唱えると、車の中でカッとなる回数が減り、相手に譲る心の余裕が生まれ、穏やかな気持ちで運転できるようになってきました。
ぜひ、皆さまも、自分の陀羅尼を考えてみてください。
そして、よろしければ、この『しらさぎ日記』ブログに投稿してください。
どうぞよろしくお願い致します。
合掌
姫路教会長 小林宏彰
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ただ今 リニューアル工事中です
〇 懴悔は悟りと一つ ○ 法華経、そして佼成会の真精神
の2段落でご解説いただいた。
今月は、2段落のご法話の掲載は省かせていただきました。
この度、11月30日をもって退職させていただくことになり、その身辺整理に多忙を極め、感想をお伝えするのが精一杯でした。申し訳ございません。
さて、先月の感想の中で、『令和元年より、3年間にわたり、会長先生より法華三部経の要点を「佼成」のご法話でご解説いただきました。各品の要点を会長先生の視点で取り上げていただき、そして、その要点をとおして具体的な心の持ち方、実践の在り方を分かりやすく、丁寧に教えていただきました。この3年間の掲載は大きな宝物をいただけたと感謝でいっぱいです。』 と、述べさせていただきましたが、今月は2ヶ月続けて法華三部経の総まとめである「観普賢経」をご解説いただき、2段落では「法華経、そして佼成会の真精神」のテーマを通して、昭和20年10月13日のご神示で示された本会の使命を、会長先生が改めてこれからの布教伝道に向かう心構えをご指導いただいていると信受させていただきました。
成仏に向かって精進させていただく私たちにとって、合掌礼拝は開祖さまが率先して大切にされた常不軽菩薩の姿であり、それは懴悔という悟りを身で示す最も身近な実践であるとご指導くださいました。
間もなくお役は終えさせていただきますが。常不軽菩薩の姿勢をお手本として,生涯精進させていただくことを決定させていただき、「教会長の話」を終わりとさせていただきます。
皆様、5年間誠に有難うございました。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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き、文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『なぜ、反省が必要なのか』というテーマを、
〇 高みをめざすから反省がある ○ 何度も繰り返しながら
の2段落でご解説いただいた。
まず、『高みをめざすから反省がある』の段落では、
東洋思想研究の権威(けんい)として知られる安岡正篤(やすおかまさひろ)師によると、私たち人間は「少しでも高く、尊く(とうとく)、大いなる存在に向(むか)おうとする本能」をもっていて、そのはたらきによって神仏を仰(あお)ぎ、敬(うやま)う心が生まれるといいます。同時に、人としての高みをめざすがゆえに、自分に至らないところがあると気づいたときには、それを省(かえり)みて恥(は)じる心が生じると述べています。つまり、反省や懴悔(さんげ)が人間の心を育て、ひいては人類の進歩や向上を支えてきたということです。
ところが、一般的に反省や懴悔は、不名誉なものと思われがちです。とくに懴悔は、「自分のおかした罪悪に気づき、それを神仏や他人に正直に話して悔(く)い改めることを誓う」と辞書にあるので、その言葉の印象からか、否定的で暗いイメージをもたれています。そのため、失敗をして反省したり、人前で懴悔したりするのは「恥ずかしくていやだ、情けない」と思う人がいるのでしょう。
しかし、理想とする存在や人間的向上をめざせばこそ、反省や懴悔の心が起きるとすれば、反省や懴悔は向上を求める前向きな意思のあらわれです。情けなくて、みじめなことなどではなくて、むしろ失敗や挫折(ざせつ)に恥じ入りながら向上していくのが、人間の当たり前の姿なのだと思います。
私たちになじみ深い法華三部経(ほっけさんぶきょう)では、その結びで、法華経(ほけきょう)の教えを実践していく上で必要なこととして、懴悔をテーマとする仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう)(以下、観普賢経)が説かれます。どれほど精進(しょうじん)しても私たちは雑念(ざつねん)に惑(まど)わされますし、至らないことのすべてに気がつくわけではありませんから、いつでも反省、懴悔する心が大切で、それが精進と一体になるとき、成長が促(うなが)されるということです。
繰り返しになりますが、反省も懴悔も、私たちが理想を求めて生きていることから生じるものです。それはいわば、仏性(ぶっしょう)のはたらきによる向上の証(あかし)であり、菩薩の証明です。だとすれば、反省や懴悔ができること自体が、尊く、有り難いことにほかならないといえるのではないでしょうか。
『何度も繰り返しながら』の段落では
先の東京オリンピックでは、「自分に足りない部分を見定めて、さらに上をめざします」といった敗者のコメントにも胸打たれましたが、このこと一つをとっても、人生において反省が向上と一つのものであることがわかります。
ただ、反省したり懴悔したりしたことが守れずに、失敗と後悔(こうかい)を繰り返すことがあるのも人生です。そのなかで、「懴悔したからには、絶対に同じ過(あやま)ちをおかしてはならない」と窮屈(きゅうくつ)に考えると息苦しくなります。反省を生かそうと努め、あるいは信仰における懴悔を実行しようと励むことは大切ですが、そのことにとらわれすぎると、思うようにできない自分や人を責めることにもなりかねません。
観普賢経には、「煩悩(ぼんのう)をすっかり断(た)ち切っていなくても、けっして煩悩に溺(おぼ)れないこと。菩薩の行ないはそれが大切です」とあります。開祖さまは、「自分が弱くて間違いやすい人間であることを思い知ったら、新たな決定(けつじょう)をし直せばいいのです。今年だめだったら、来年は必ずと決心すればいい」と、至らない私たちに助け舟をだしています。
いいところも悪いところも含めて、神仏の前に自分のありのままをさらけだすと、心が洗われます。そうしてまた、再始動すればいいのです。その反省や懴悔が精進の歩みを支える杖となって、少しずつ人間的に成長していくのです。
また、人はなすべき仕事に没頭(ぼっとう)しているときがもっとも神に近いという言葉にふれたことがあります。観普賢経に、「若(も)し懴悔せんと欲せば 端坐(たんざ)して実相(じっそう)を思え」とあるとおり、反省、懴悔をしたら、あとは自己中心の見方を離れて、日々を一所懸命に暮らすことが大切なのです。
と、締めくくられた。
令和元年より、3年間にわたり、会長先生より法華三部経の要点を「佼成」のご法話でご解説いただきました。各品の要点を会長先生の視点で取り上げていただき、そして、その要点をとおして具体的な心の持ち方、実践の在り方を分かりやすく、丁寧に教えていただきました。この3年間の掲載は大きな宝物をいただけたと感謝でいっぱいです。
さて、今月は法華三部経の総まとめである「観普賢経」をご解説いただき「なぜ反省が必要なのか」のテーマは、成仏に向かって精進させていただく私たちにとって重要な問いかけであります。会長先生は『年頭法話』でも「反省創造しよう」と方針をお示しいただきました。反省・懴悔の重要性をあらためて確認させていただきました。これからは、自己中心の見方を離れ(端座して実相を思い)、自分の仏性を自覚し、ふれる人の仏性を拝み切る日々を、一所懸命暮らしましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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今月は、『 原点に帰ろう 』というテーマを、
〇 「十よりかえるもとのその一」 ○ 道心と童心
の2段落でご解説いただいた。
まず、『「十よりかえるもとのその一」』の段落では、
信仰をはじめたばかりのころ、私たちは先輩から一つ一つ教えていただきながら、自分でも教えを求めて学び、少しずつ仏の教えを身につけてきたと思います。法座(ほうざ)にすわれば法によって救われた人の話に感動し、道を求める気持ちがさらに高まって、一方では自分の至らなさに気づかされ、また精進(しょうじん)する ―― その繰り返しが「求道(ぐどう)」です。
ところが、それに慣れてくると、最初のころの感動や求める気持ちが薄れ、わかったような気になって、自己を磨(みが)くという信仰本来の目的を見失ってしまいがちです。
「十まで習ったから、もうそれでいい」ということではなくて、「十まで知ったなら、また一に戻っておさらいをする」。そうすることで、最初に学んだときには気がつかなかったことに気づかされ、また一歩、教えの真意(しんい)に近づくというのが、冒頭に掲げた言葉の意味あいだと思います。
法華経(ほけきょう)においても、二十八品(ほん)の結びとなる「普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)」は、まさに法華経全体を総括(そうかつ)する内容で、そのことをとおして、つねに原点に帰る大切さが教えられています。
晩年の開祖さまが、法話でよく同品の「四法成就(しほうじょうじゅ)」にふれたのも、序品(じょほん)からの法華経の教えをやさしい表現でおさらいする内容だからだと思います。仏に護(まも)られていることを信じて、善(よ)いことを繰り返し、信仰の仲間とともに、社会全体の幸福を願って思いやりの実践につとめる ―― これが、仏の道を信じて歩む私たちの基本、原点だからです。
『道心と童心』の段落では
「恋法(れんぽう)」という言葉があります。ただひとすじに、純真(じゅんしん)に法を求めるという意味で、「勧発品」の「勧発(かんぼつ)」のことを天台大師(てんだいだいし)がこのように解釈して記された言葉のようです。
たしかに、仏の教えを聞かせていただきたいと一心に願うのは、あたかも人を恋(こ)い慕(した)うときのように、相手(法)のことをもっと知りたいと思い、相手とともに歩みたいと願って、それを純粋(じゅんすい)に求める気持ちに似ています。いつでも信仰の原点に帰って精進するには、人を恋するように道を求める気持ちが原動力になるということでしょう。
ただ、そうはいっても、一般社会にあって日々の生活を大切にしながらとなると、信仰一途(いちず)には行けないこともあります。生きるためには利害(りがい)や打算(ださん)も無視できなくて、そのために精進がおろそかになるのもやむを得ないかもしれません。それでも、みんなと一緒にいい社会をつくり、ともに幸せになりたいという、幼い子どもがもつような純粋な願いを忘れなければ、いつでも発心(ほっしん)したころの気持ちに帰ることができます。つまり、「道心(どうしん)」とともに「童心(どうしん)」を失わないことが大切だということです。
「勧発」の「勧(勧(すす)める)」という言葉には、「励まして気持ちを奮(ふる)い立たせる」という意味もありますが、「普賢菩薩勧発品」では、仏の教えを実践する人が仏から「善哉(ぜんざい)」とほめられたり、頭をなでられたりします。日々の仏道実践(ぶつどうじっせん)に新鮮な気持ちでとりくむとき、仏はこのようにいつでも私たちをあたたかく見守り、励ましてくださるのです。
そう思うと、地道(じみち)な精進にも弾(はず)みがついて楽しくなってきます。原点に帰れば、ご供養も法座もサンガとの出会いも、感動を新たにする喜びの場であると気づくのです。
と、締めくくられた。
今月は「原点に帰ろう」というテーマでご指導をいただきました。「法華経においても、二十八品の結びとなる『普賢菩薩勧発品』は、まさに法華経全体を総括する内容で、そのことを通して、常に原点に帰る大切さが教えられています。」(本文)法華経に出会えた私たちが、その教えを「ほんとうに自分のものにする」、本当に自分のものにするというのは「真の功徳を得る」ということにほかならない。そのためには「四法成就」が必要であると『法華経の新しい解釈』でも説かれています。
つまり「諸仏に護念せらるる(信仰の確立)」「徳本を植える(自行の確立)」「正定聚に入る(僧伽意識の確立)」「一切衆生を救う心を発す(化他行の確立)」ために、三つの基本信行の一つひとつを丁寧に実践させていただくことが、原点に帰ることではないでしょうか。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『善い縁を結ぶために』というテーマを、
○ 最高のご縁とは ○ 心の姿勢が大事
の2段落でご解説いただいた。
まず、『最高のご縁とは』の段落では、
私たちは日々、さまざまなご縁のなかで生きています。縁によって生かされている、といってもいいでしょう。人との出会い、ものごととの出会い、そして家族との会話一つも、そのときのタイミングが生みだす縁によるものです。
そうした縁の一つ一つが、いつでも善いものであってほしい、喜ばしいものであってほしいと、私たちは願います。
しかし、そう都合よくいかないのが私たちの人生です。とくに人とのご縁では、いやなことや不都合なことが起きると、とたんにその出会いは善縁(ぜんえん)と感じられなくなります。
神道(しんとう)の黒住教(くろずみきょう)を開かれた黒住宗忠(むねただ)という方は、何につけ「善悪ともに天命(てんめい)と思えば、少しも苦にならない」といわれ、「何事も有(あり)がたひにて世にすめば むかふものごと有がたひなり」と示されています。つまり、この世のはたらきはすべて天命であり神仏のはからいなので、めぐりあう縁に善いも悪いもなく、自分中心の見方をしなければ、何もかもが必要あって出会う有り難い縁だということです。
そして、そうした縁をとおして真理を学び、受けとることができたら、それこそが「善い縁を結ぶ」ことの本来の意味だと思います。仏教徒であれば、仏の教えを伝えるご縁がそれに当たります。すると、すでにサンガに連なる私たちは、最高の善縁に恵まれた幸せ者といえそうです。
『心の姿勢が大事』の段落では
ところで、私たちはどうして善い縁を望むのでしょうか。
漠然(ばくぜん)と「そのほうが幸せだから」と思う人も多いでしょうが、仏の教えからすると、私たちは仏性(ぶっしょう)そのものとして生まれてきたからです。それが、善い縁を結びたいと願う根源的(こんげんてき)な理由です。すべてが調和した円満な状態を、私たちの心はつねに求めているのです。
そのような私たちが、つい顔をのぞかせる自分勝手な思いに負けないで、出会う人やものごとをいつでも善い縁にしていくポイントは、そのご縁が何を教えているのかを「学ぶ」姿勢と、そのことで気づいた点を「省(かえり)みる」ことです。仏は、あらゆるかたちで教えを説き、真理を示していますから、人やできごととの出会いのなかにあるお諭(さと)しをキャッチすることで、すべてが善縁となるのです。
また、法華経(ほけきょう)の「妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)」は、子が親を仏の教えに導く説話ですが、ここでは親である妙荘厳王が、立場や体面(たいめん)にとらわれないで「柔軟(にゅうなん)」に子の進言(しんげん)を聞き入れ、「謙虚」な気持ちで仏道修行に励む姿勢が描かれています。
開祖さまは、善い縁をつくるには「まず人さまを拝(おが)むこと」と示され、自分を高く見せようとする小我(しょうが)を捨てると、善い縁となるふれあいが生まれるともいっています。心一つで、わが子が人生の師ともなる善縁が展開するのです。子どもからの指摘を柔軟に受け入れられない「頑固(がんこ)おやじ」には耳が痛い話ですが、わがままが出がちな家族だからこそ、日々、善い縁を繰り返す心の姿勢が大切なのだと、自戒(じかい)しています。
今月10日に「報恩会(ほうおんえ)」を迎える脇祖さまは、「人の気持ちをよくくんでものごとにあたったらなら、どんな人とでも円満におつきあいできる」といって、つねに人を思いやることを忘れず、「人さまを救うのは、まごころが第一」と語ったとおり、慈悲(じひ)に徹する姿勢を貫(つらぬ)きました。病(やまい)の問屋といわれるほどの病苦や、貧しい暮らしのなかで味わった悲しみから、「善い縁は、まごころが結ぶ」という真実を体験的に学ばれたのだと思います。
では、いま私たちのまわりで苦悩にあえぐ人の求めに、私たちはどう応(こた)えたらいいのでしょうか、――大事なご縁を見逃しているのかもしれません。
と、締めくくられた。
今年、会長先生は、「年頭法話」で斉家を強調されました。幼少年・青年を健全育成する拠点は、家庭。斉家で大きな役割を果たすのが親の姿勢である。斉家のポイントは、まず、親である私たちが「ご宝前を中心にした生活」「三つの実践」の基本を身に付けることとご指導いただきました。これは、下半期への精進の姿勢でもありますが、「妙荘厳王」の姿勢から、立場や体面にとらわれないで「柔軟」に子の進言を聞き入れ、「謙虚」な気持ちで仏道修行に励む姿を学び、私たちも出会うすべてのご縁が、何を教えているのかを「学び」、そのことで気づいた点を「省みる」ことですべてが善縁となるよう、三つの基本信行を繰り返し精進させて頂き、いま私たちのまわりで苦悩にあえぐ人の求めに、そのご縁から真理を通して何を学ぶのかを一緒に考え、乗り越えていく触れ合いを、心配行として取り組ませていただきましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『心の隙間を埋める』というテーマを、
○ 心のなかには鬼も仏も ○ 常精進を助ける言葉
の2段落でご解説いただいた。
まず、『心のなかには鬼も仏も』の段落では、
仏教では、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三つを「人の心を毒する根本的な煩悩(ぼんのう)」と教えています。何においても必要以上に貪(むさぼ)り、満足を知らない心、怒りの心、真実の道理がわからず、目先のことしか考えない心 ―― これらが嫉妬(しっと)や憎しみや不和を招いて、自分を苦しめるというのです。
「三毒」といわれるこうした煩悩は、人間ならだれでもあるもので、もちろん、釈尊(しゃくそん)にもあったのです。ただ、私たちと釈尊の違いは、欲望や怒りを制御(せいぎょ)できるかどうか、という点です。私たちは、欲や怒りをうまくコントロールできないがために、思わず軽はずみな行動や悪いことをして、よけいな苦しみを背負いこむのです。
そのようなとき、私たちは「つい魔が差して」といったりしますが、その「魔」は「人に害を与える鬼類(おにるい)」とか「人の心を迷わせ、乱し、修行を妨(さまた)げるもの」といわれます。
ただし、それは外部から私たちの心に侵入(しんにゅう)してくるものではありません。神や仏が自分の心の写し絵であるのと同じで、魔も鬼も、すべて自分の心のはたらきです。
ところが、幸いなことに、法華経(ほけきょう)の「陀羅尼品(だらにほん)」に「陀羅尼を得たならば、餓鬼(がき)のような鬼どもが人の弱点をさがしてつけ入ろうとしても、つけこむ隙(すき)が見いだせない」とあります。餓鬼とは貪欲の象徴ですから、あれも欲しい、これも欲しいと貪る心が起きかけても、「陀羅尼」を得れば、その心が暴れだす前に制御できるというのです。
それでは、心のなかの魔や鬼が暴れだす隙を与えない「陀羅尼」とはいったいなんでしょうか。また私たちも、その「陀羅尼」を得ることができるのでしょうか。
『常精進を助ける言葉』の段落では
「陀羅尼」について、本会では「あらゆる悪をとどめ、あらゆる善をすすめる力」「それを唱えれば仏の世界にまっすぐに入っていくことができる神秘的(しんぴてき)な言葉」と説明しています。もう少しわかりやすくいえば、「陀羅尼」とは、それを唱えれば、心のなかで動き回る貪りや怒りや自己中心の思いを抑(おさ)えて、自分のなかにある仏の心をはたらかせる力をもつ、呪文(じゅもん)のような言葉ということでしょう。
以前、武士道について書かれた『葉隠(はがくれ)』のなかの「跡見(あとみ)よ そわか」という言葉をご紹介しましたが、これは「忘れていることはないか」「もう一度、よく見てごらん」と、自分の行ないをふり返ることをうながす「陀羅尼」です。
「そわか」とは仏への呼びかけの言葉で、円満成就(じょうじゅ)するといった意味もありますから、この言葉が自分のなかの仏への呼びかけとなり、仏心(ぶっしん)に立ち返るスイッチになるのです。
ついカッと頭に血がのぼりそうになったときなどに、私は心のなかで「おんにこにこ はらたつまいぞや そわか」と唱えます。すると感情の波が静まって、後悔するような言動を慎(むさぼ)むことができるのです。
どれほど強い意志をもった人も、鬼や魔にたとえられる貪瞋痴(とんじんち)の誘惑にはなかなか勝てません。しかし、心に隙が生じそうなときに自己を省みる「陀羅尼」というスイッチがあれば、魔が動きだす前に隙間を埋めて、心を切り替えることができます。菩薩(ぼさつ)の道を歩もうと誓いながらも、迷ったり悩んだりすることの多い私たちにそのことを教えるのが「陀羅尼品」ではないかと私は受けとめています。
難しい言葉の意味や理屈がわからなくても、「陀羅尼」を唱えれば心願(しんがん)が成就するといった昔からの用いられ方を見ても、私たちをいつでも精進(しょうじん)の道へと引き戻し、元気を与えてくれる力がそこにあるということでしょう。
では、自分にとっての「陀羅尼」とは ―― それを考え、会得(えとく)するのもまた、心の隙間を埋める助けになるはずです。
と、締めくくられた。
仏教は「中道」の教えといわれます。「中道」とは一方にかたよらないということですが、それは「右にも左にもかたよらない、ちょうど真ん中」というような固定的な位置を指すものではなく、真理に合っていれば位置はどこでもいいという考え方です。この教えが身につくと、固定的なものの見方はなくなり真理に合った考え方が身につくといわれます。
そして「陀羅尼品」では、三毒といわれる煩悩に悩まされるのが凡夫であるが、その三毒をコントールできるのが陀羅尼であると説かれます。中道の教えのバランスと陀羅尼による感情のコントロールができると、感情の波が収まって、後悔するような言動を慎むことができる。心に隙間が生じそうなときに、自己を省みる「陀羅尼」というスイッチがあれば魔が動きだす前に隙間を埋めて、心を切り替えることができる。菩薩の道を歩もうと誓いながらも迷ったり、悩んだりすることの多い私たちにそのことを教えてくれるのが「陀羅尼品」である。私にとっての陀羅尼は、「善いことを 心をこめて くり返す」です。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『慈しみの眼をもって』というテーマを、
○ 「慈眼をもって衆生を視る」とは、○ 足元を照らす灯に
の2段落でご解説いただいた。
まず、『「慈眼をもって衆生を視る」とは』の段落では、
「慈眼(じげん)をもって衆生(しゅじょう)を視(み)る 福寿(ふくじゅ)の海無量(うみむりょう)なり」 ―― 法華経(ほけきょう)「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぽん)」の名句として知られる一節です。
慈悲(じひ)の眼(まなこ)で衆生を視れば無量の福が聚(あつ)まるというのですが、慈悲の眼で世間や人びとを見るとは、どのようなことを大切にする見方なのでしょうか。
六月号の本欄でご紹介した詩人の山尾三省(やまおさんせい)氏が、「観世音菩薩」という詩で、その答えともいえる仏の教えの真実をやさしく説き明かしています。作品の一部をご紹介しましょう。
「観世音菩薩 というのは/世界を流れている 深い慈愛心のことであり/わたくしの内にも流れている ひとつの/深い慈愛心のことであるが/(中略)/一人の人が ぼくに喜びを与えてくれるならば/その人は 観世音菩薩なのであり/一本の樹が ぼくに慰(なぐさ)めを与えてくれるならば/その樹は まごうかたなく観世音菩薩なのである/(中略)/わたしが人を責めることをしないならば/それが観世音菩薩であり/あなたがわたしを許してくださるならば/そこに聖(しょう)観世音菩薩は 現前(げんぜん)しておられる/観世音菩薩というのは/世界を流れている 深い慈悲心であり/あなたの内にも わたしの内にも流れている/ひとつの 深い慈悲心のことなのである」(『観音経の森を歩く』野草社刊)
一読しただけで、だれもが仏性(ぶっしょう)を自覚するようなすばらしい詩だと思います。「ほんとうに大事なことをわかってほしい」と願う作者の慈悲心が智慧(ちえ)となって、やさしい表現で教えの真実を伝えるこの作品が生まれたのでしょう。
「慈眼をもって衆生を視る」の意味するところを、この詩を手がかりに考えれば、だれのなかにも、観世音菩薩と同様の深い慈悲心が流れていると見ることです。そして、一人ひとり別々の生き方をしていても、ともに全体のなかの一人として自他一体の大きな「いのち」を生きており、互いにそのような尊(とうと)い命をいただいていると見ることです。それが、無量の福を呼ぶ慈(いつく)しみの眼といえるのです。
『足元を照らす灯に』の段落では
作家の立松和平(たてまつわへい)さんが、信仰の山として親しまれる栃木県の男体山(なんたいさん)に登ったときの体験を随筆(ずいひつ)に綴(つづ)っていました。
懐中電灯(かいちゅうでんとう)を持たないで山に入ったその日、立松さん一行は下山(げざん)が遅れて日没を迎え、山道を歩くのが困難になってきたそうです。足元はるかに中禅寺湖(ちゅうぜんじこ)があり、湖畔(こはん)には土産物店や宿の明かりが輝いていますが、山中(さんちゅう)の闇(やみ)は深くなるばかりです。そのとき、前方にかすかな光が見えました。それは、道の先で疲労のためにしゃがみこんでいた女性の持つ懐中電灯の小さな灯(あかり)でした。立松さんたちは女性のもとに歩み寄り、荷物を持ってあげます。そして、細く、小さな灯で足元を照らしながら一緒に山をくだったのです。
立松さんは、こう記します。「いっしょに歩いた私たちは、その婦人にとって観音で、その婦人は懐中電燈(でんとう)で足元を照らしてくれたので、私たちには観音ということになる。遠くの光は、どんなに光量(こうりょう)が豊かでも、なんの救いにもならない。そのかわり、どんな心細(こころぼそ)い光でもすぐ前にあれば、それは大いなる救いなのである」と。いたわりや思いやりという淡(あわ)い光のなかにこそ、菩薩が立ちあらわれるのです。
それは、観音さまがあらゆる時と場所に現れて救いの手立てを示すと教える、観音経(かんのんぎょう)の「普門示現(ふもんじげん)」の世界そのものです。そして、慈悲の極(きわ)みといわれる「如来寿量品(にゅらいじゅりょうほん)」の結びの一節、「何(なに)を以(もっ)てか衆生(しゅじょう)をして 無上道(むじょうどう)に入り 速(すみ)やかに仏身(ぶっしん)を成就(じょうじゅ)することを得(え)せしめんと」を、私たち一人ひとりが自分の願いとして人を思いやるならば、そこにおおぜいの菩薩が生まれて、みんなが幸せになれますよと、観音経は私たちに励ましと救いを与えてくれるのです。
と、締めくくられた。
先月号では「観音さまを念ずる」というご法話をいただき、自らの可能性を自覚することの大切さ、観音妙智の力を自覚し、自らその働きができるよう念ずることの大切さをご指導いただきました。
今月号では、菩薩の実践についてご指導くださいました。まず、「慈眼をもって衆生を視る」見方について山尾三省氏の詩から、四つの実践が説かれ、この詩を手がかりに、観世音菩薩と同様の慈悲心が自分にも流れていると自覚すること、そして、「足元を照らす灯に」の段落では、立松さんご自身の体験をとおして観音の働きについて、光にたとえられ、「遠くの光はどんなに光量が豊かでも、なんの救いにもならない、そのかわり、どんな心細い光でもすぐ前にあれば、それは大いなる救いとなり、それが観音の救いであると。そこで、天台宗の宗祖「最澄」の言葉「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」が思い出され、一隅を照らす人が観音さまと同じともいえると感じた。観音さまの「普門示現」の働き、苦しみ悩む人に寄り添い、自分にできる精いっぱいを尽くして、心配行をさせて頂く。
今月も、また、下半期に向けて、身近な人の足元を照らす灯になれるよう精進させて頂きましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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今月は、『 観音さまを念ずる 』というテーマを、
○ 自分の可能性を自覚する、○ すべての人を救いたい、という願いの2段落でご解説いただいた。
まず、『自分の可能性を自覚する』の段落では、
法華経(ほけきょう)の「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぽん)」は、「観音経(かんのんきょう)」とも呼ばれて、たくさんの人に親しまれています。そのわけは、私たちが苦悩するとき、一心に観音さまを念ずれば、観音さまはすぐにその声を聞き届け、救ってくださる、という教えに勇気をもらい、観音さまを信じて慕(した)う人が多いからでありましょう。ただ、それだけを聞くと、神仏にご利益(りやく)を願う信仰のようですが、観音さまを念ずることが仏の教えと真剣に向きあうきっかけになるのだとしたら、それも信仰の入り口として尊重すべきものだと思います。
とはいえ、私は、観音経は単に念ずれば救われる、助かると教えるものではないと受けとめています。なぜなら、「観世音菩薩普門品」が法華経のなかの教えだからです。観音経には、法華経の精神がこめられているからです。
その一つが、自らの可能性を自覚することの大切さです。「観音妙智力(みょうちりき)」という言葉があります。私たちも毎日、読経供養(どきょうくよう)の際に「観音妙智(みょうち)の力(ちから) 能(よ)く世間(せけん)の苦(く)を救(すく)う」と読誦(どくじゅ)するこの言葉の意味あいを、開祖さまは「苦難に会ったときにはねかえす内面的な力、かえってその苦難から栄養をとって成長する不可思議(ふかしぎ)な心の力」と説明しています。
苦しみの底から立ち上がり、その苦を糧(かて)に成長できる底力(そこじから)が私たちにはあって、それが「観音妙智力」だというのです。詩人の山尾三省(やまおさんせい)氏は、私たちに内在する根源(こんげん)の生命力を念ずるのが、観音の力を念ずることだといいます。
つまり、観音さまとは自分自身のことにほかならず、そのような自己の可能性を信じ、内なる観音の力を信じて一心に念じるとき、私たちの心には安心感とともに気力が湧(わ)いてくる ―― それが、苦から救われるということなのです。
『すべての人を救いたい、という願い』の段落では
私たちは、たとえば苦しみのなかで絶望しかけたとき、ふと「永遠につづく苦しみはない」と気づいて肚(はら)が据(す)わったり、孤独感にさいなまれて死を念(おも)う衝動(しょうどう)にかられたときに、愛情をもって見守ってくれた人を思いだして生きる力を得たりすることがあります。それは、いわば諸行無常(しょぎょうむじょう)や諸法無我(しょほうむが)などの真理に目ざめ、新たな人生が開かれた瞬間です。たとえ、そのときそれが仏の教えとわからなくても、自分に具(そな)わる智慧(ちえ)の力(妙智力)によって、自ら立ち上がることができたということに間違いはないでしょう。
ほんとうに苦しいとき、すがるような思いで「観音さま、助けてください」と念ずる人があるかもしれません。しかし、それでもいいのです。現世利益(げんせりやく)を願う祈りであっても、観音さまを一心に念ずる素直な心と、内なる観音とが一つになったとき、自分本来の力がはたらくのですから。
その意味では、「方便即真実(ほうべんそくしんじつ)」という言葉がありますが、観音さまの力という方便をとおして、「仏性(ぶっしょう)が自覚できればだれもが必ず救われる、自由自在な世界が開ける」という真実を教えているのが観音経といえるのです。
また観音経には、観世音菩薩がさまざまな手立てをもって人びとを苦難から救うことが繰り返し説かれていますが、それもまた、「すべての人を救いたい」という観音さまと同じ心が私たちにもあることに気づかせる、一つの方便ではないでしょうか。そして、観音さまを念ずることで、あたかも千手(せんじゅ)観音のように、「千の手を差し伸べてでも人びとに幸せや安らぎを与えたい」と願う心があることに気づいたならば、こんどは自分が一人の菩薩となって実践にふみだす。その大切さを、観音経は説き示しているのです。
地蔵(じぞう)菩薩に常不軽(じょうふきょう)菩薩……と、観音さまに限らず、自分がめざす菩薩としての歩み方は人それぞれでしょうが、次号ではその菩薩の実践についてふれたいと思います。
と、締めくくられた。
法華経は「自覚の教え」といわれています。方便品で、仏さまが悟られた真理は「諸法実相」と表明され、それを人間に当てはめると、どのような人もその奥には仏性(仏になれる可能性)を具えているという意味であり、方便品から授学無学人記品までは、開三顕一の法門として、仏性の自覚を促されています。そして、法師品で“法師の自覚”に立ち、仏さまの衆生教化のお手伝いをする決定をし、五種法師や安楽行などの行法を通じて、本尊観に至ります。本仏の願いは一切衆生の救済でありますから、人さまの悩み、苦しみ、迷いから救い出す実践が究極の菩薩行であり、流通分(23番以降)に登場する菩薩さま方はその菩薩行を具体的に実践された私たちのお手本です。そして、お手本としての代表が観世音菩薩さまで、その教化力の偉大さで、観音信仰とまで慕われるほどであります。特に、「すべての人を救いたい」との願いから「普門示現」を実践され、その時のお心は「大悲代受苦」のお心でした、我々はそのお徳を賛嘆するとともに、それをお手本に、「観音妙智の力」を発揮できるよう観音さまを念じて、信者さんの救護に取り組ませて頂きましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『ていねいに暮らす』というテーマを、
○ 分別をしない、○ 他者を思うことで
の2段落でご解説いただいた。
まず、『分別をしない』の段落では、
私たちは、朝起きてから寝るまでのあいだ、その行動の多くを、知らずしらずのうちに「大事なことと、そうでないこと」に分けて暮らしているのではないでしょうか。ご供養(くよう)はおろそかにできないけれど、家族とのあいさつはいいかげんになりがち・・・・・・といった具合に。
「一大事(いちだいじ)と申すは、今日ただいまの心なり」と喝破(かっぱ)したのは、正受(しょうじゅ)老人の名で知られる禅僧の道鏡慧端(どうきょうえたん)ですが、朝起きて家族にあいさつをすることも、顔を洗うことも、そのあとでご供養をし、仕事に出かけて商談することも、一つ一つどれも「一大事」なのです。その行ないに心を注ぎ、ていねいにとりくむことに変わりはないということです。
ところが、それがなかなかできないのは、単に忙しいからというだけではなくて、私たちがものごとを「分別(ふんべつ)」しているからです。ほんとうはどのようなことにも意義や価値があるのに、「これは念入りに」と注意を払うものがある一方で、「あれは気を抜いても大丈夫」と自分に都合のいい判断をしたものについては、心のこもらない言葉や行動となってあらわれたりするのではないでしょうか。
以前、「花の美しさに序列(じょれつ)はない」という言葉を教えていただいたことがありますが、表面的な価値や好き嫌いを離れて見れば、どれもこれも大事なこと、大切なものとして受けとめていけるということでしょう。
そもそも正受老人の「正受」は、「自分の考えを離れて一つのことに集中する」ことを意味する「サマーディ」(三昧(さんまい))の漢訳ですから、「今日ただいま」の行動に集中するには、自分の都合をいったん忘れることが大切なのです。
『他者を思うことで』の段落では
また、別の角度でていねいな暮らし方について考えてみると、たとえばわが家では、冬期などに給湯器(きゅうとうき)のスイッチを入れてお湯が出てくるまでのあいだ、蛇口(じゃぐち)から出てくる冷たい水を流れるがままにせず、別の容器に汲み置いて加湿器などで使います。少しの水も無駄(むだ)にしないこうした工夫も、ていねいに暮らすことに通じることの一つかもしれません。これは、水にかぎらず、ふだん気にも留(と)めないことに少し心遣(こころづか)いを加えると、それがより生かされるということにも通じます。
あるいは、短歌や俳句などにふれることも、日常の一瞬に目を向け、生活の周辺に心を留める訓練になりそうです。「若葉さすころはいづこの山見ても何の木見ても麗(うるわ)しきかな」(橘暁覧(たちばなのあけみ))。いまの季節をうつす明るい歌ですが、このように四季の彩(いろど)りや変化に目を向けることが、平凡な暮らしのなかにある幸せをかみしめることにもつながって、いまこのときを愛(いと)おしく思い、大切にする心を育てます。
ただ、それでもまだ漠然(ばくぜん)と「ていねいに暮らそう」と考えるだけでは、いままでの生活習慣に流されがちな私たちです。その場その場の所作や行動を、おのずからていねいなものにするにはどうすればいいのでしょうか。
法華経(ほけきょう)の「妙音菩薩品(みょうおんぼさっぽん)」には、妙音菩薩が数多くの三昧を得たことが示されています。その三昧の根底には、どれにも菩薩の願いがあります。「縁のある人だけではなく、縁のない人まで救おう」「松明(たいまつ)が周囲を照らすように、智慧(ちえ)の光で人びとを明るく照らそう」と精神を集中する、そういう三昧を得たというのです。つまり、近くにいるだれかの役に立ちたい、遠い国のだれかを喜ばせたいといった願いがあれば、洗顔一つにも心をこめるような、ていねいな生き方をせずにはいられなくなるということでしょう。
何を見ても「麗しきかな」と受けとれる情感とともに、いつでも幸福感あふれる日々がそこにあります。
と、締めくくられた。
私たちは知らずしらずのうちに「大事なことと、そうでないこと」を分別しています。それは自分中心なものの見方・考え方が根底にあるからでしょう。そこで、会長先生は今月、一日の行動の一つ一つのどれにも心を注ぎ、ていねいに取り組み、「今日ただいま」の行動に集中する、そのためには、自分の都合をいったん忘れることが大切とご指導くださっています。
その自己都合を忘れるためには「他者を思うこと」に集中する(三昧を得る)ことをお示しいただきました。
「妙音菩薩品」には、妙音菩薩が数多くの三昧を得たことが示されていますが、その三昧の根底には、どれにも菩薩の願い(「近くにいるだれかの役に立ちたい、遠い国のだれかを喜ばせたい」)があります。その願いが精神を集中させ、洗顔一つにも心をこめるようなていねいな生き方ができるようになる。そして、何を見ても「麗しきかな」と受けとれる情感が身につき、いつでも幸福感あふれる日々がおくれる、とご指導くださいました。その理想の境地に向かって、一歩でも近づけるよう精進させていただきましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『いまをともに生きる』というテーマを、
○ 実践によって仏になる、 ○ 春風となって
の2段落でご解説いただいた。
まず、『実践によって仏になる』の段落では、
まもなく、釈尊(ぼさつ)がお生まれになった4月8日の降誕会を迎えます。仏伝によれば、釈尊は誕生してすぐに「天上天下唯我独尊(てんちょうてんげゆいがどくそん)」と宣言されたといわれます。これは、釈尊を讃える伝説の一つとされますが、私は仏教の本質をこれ以上ない表現で示したものと受けとめています。
この「誕生偈(たんじょうげ)」を、ある方は「われこそは、この世にたぐいなきものである」と表現しています。釈尊だけでなく、人はだれもが生まれた瞬間から、それぞれ他と比べようのない尊い存在だということです。そして、その自らの命の尊さを自覚して生きることを教えるのが仏教ですから、「誕生偈」はそうした仏教の核心を釈尊降誕の物語にことよせて伝えているといえるのです。
また、仏教は「人が人を救う教え」ですが、その点から見ても「誕生偈」の意義には味わい深いものがあります。
人間釈尊が真理を悟り、その教えをもとに私たちが救われて、救われた人がまた身近で苦しむ人を救う ―― 釈尊時代からつづく、人が人を救い・救われるという仏教の歴史に照らしても、人間のすばらしさを思わずにいられません。
ただ、一つ大切なことは、釈尊が「生まれによって聖者となるのではない。行為によって聖者なのである」といわれるように、人間の尊さは日ごろの行ないによって磨きだされるということです。道元禅師(どうげんぜんじ)は「修証一等(しゅしょういっとう)」という言葉で、悟るための手段が修行ではなくて、精進(しょうじん)するその姿が悟りの証だといっています。つまり、仏の教えを暮らしに生かす日々の精進は私たちが仏であることの証(あかし)で、その実践によって慈悲(じひ)の心を深めていくのが仏道なのです。
『春風となって』の段落では
法華経(ほけきょう)の「薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)」は、仏の教えを身をもって実践することの大切さと、その姿が多くの人に「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の心」を発(おこ)さしめることを示しています。平たくいえば、「まず人さま」と損得勘定(そんとくかんじょう)を超えてわが身を使い、心と言葉を尽くして人を思いやるとき、その実践は自分の幸せや喜びとともに、みんなの救いにつながる光明(こうみょう)になるということです。
これをより具体的に、「仏道修行は人びとに奉仕すること」と明言する人もいます。シャーンティデーヴァいうインド僧は、慈悲の心を行動で示すことが精進であり、仏教にほかならないといいます。そのことについて中村元(なかむらはじめ)先生は、「宗教の教えを知っているというだけでは、なんの意味もない。われわれの身体をもってする行為のどこかに具現(ぐげん)されなければなりません」と簡潔に述べています。
教えを知っていることに意味がないわけではありませんが、困っている人にとっては、具体的に手を差し伸べてくれる行為は何よりの救いになるはずです。
さらに、そのあたたかな思いやりを受けた喜びが、自他の命の尊さに目ざめる契機になる人もいるでしょう。一つの慈悲の実践が、人の心を真実に向かわせる手立てになるのです。そうした「慈悲の方便(ほうべん)」こそ、釈尊の願いに通じる布教伝道の原点なのかもしれません。コロナ禍のいまは、ことのほかそうした慈悲心が求められているのです。
ただ、そのためには、できるだけ自身が慎ましく生きることが大事だと、先のインド僧はいいます。その意味では、できるだけ少ないもので満足し、何ごとにも感謝するというシンプルな生き方を忘れてはならないと思います。
そのうえで、「願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや」(佐佐木信綱(ささきのぶつな))という歌のように、いまをともに生きるすべての人の苦悩を思い、春風のように軽やかに慈悲の心を届けられる日を待ちたいと思うのです。
と、締めくくられた。
今月は釈尊降誕月ということで「誕生偈」を通して、自らの命の尊さを自覚して生きることを教えるのが仏教であり、その生き方は成仏に向かって精進することをお示しいただいています。
道元禅師は「修証一等」という言葉で、仏の教えを暮らしに生かす日々の精進は私たちが仏であることの証で、その実践によって慈悲の心を深めていくのが仏道であるといっておられます。そして、会長先生より「薬王菩薩本事品」を通して、身をもって実践することの大切さと、その姿を通して悟りを求める心を発さしめることをお示しいただきました。
いよいよこの品から法華経の実践編に入り、多くの菩薩たちが登場して、私たちに実践の手本を示してくださいます。
この品の要旨として、薬王菩薩の前世の姿「一切衆生憙見菩薩(いっさい
しゅじょうきけんぼさつ)」の修行のあり方を通して、
〇 人間にとって自己犠牲ほど高貴な精神はない、
〇 実行こそが教えに対する最高の供養であることを教えられています。
困っている人にとっては、具体的に手を差し伸べてくれる行為が何よりの救いになる、一つの慈悲の実践が、人の心を真実に向かわせる手立てとなる、そうした「慈悲の方便」こそ、釈尊の願いに通じる布教伝道の原点とご指導いただきました。コロナ禍を乗り越えて、一日も早く直接対面して、信者さんの心配行ができることを願って今月も精進させていただきましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『信じて任せる心』というテーマを、
○ 仏の立場で見る、○ 釈尊の信託と創立の願い
の2段落でご解説いただいた。
まず、『仏の立場で見る』の段落では、
「出替(でがわり)の笑いにふくむなみだかな」(松岡青蘿(まつおかせいら))という句があります。「出替(り)」とは、いまでいう人事異動のようなものですが、そこで生まれる悲喜(ひき)こもごもの様子は、江戸の昔も現代もあまり変わりがないようです。
春先になると、企業など多くの組織で人事が話題になります。もちろん本会にも、時期は違うものの定期的に人事異動がありますが、本会では、行政機関に見られるような人事委員会を設けて行なっています。なぜなら、限られた人、たとえば私なら私が一人で人事を担当したりすると、そこに私情が入りこみかねないからです。
私たちは、だれもが凡夫(ぼんぷ)の心をもっています。人の好き嫌いに左右されたり、噂や偏見に基づくレッテルを貼って人を評価したりしがちです。しかし、それでは仏の立場で人を見ることにはなりません。「悉有仏性(しつうぶっしょう)」―― 生きとし生けるものはみな、仏と同じ本質を具(そな)えていると学びながら、凡夫の視点にとどまってしまうのは、信心がそこにまで至っていないということです。
また、もし私たちが、何かしらのレッテルを貼ってだれかを見ているとしたら、そのレッテルと同じものが自分にもあると省みることも大切です。「あの人は卑怯者(ひきょうもの)だ」と見る自分にも、卑怯な一面があるということです。
法華経(ほけきょう)の「嘱累品(ぞくるいほん)」では、「みんなが幸せになれるよう、どうかみなさんに法華経の教えを伝えてください。よろしく頼みますよ」と仏が菩薩(ぼさつ)に託しますが、人事に限らず、どのようなときも、仏が菩薩を見るように人を見て信頼できたら、どれほど心が安らぐことでしょう。信じて任せきる仏のように、人を見ることができる、信じられるというのは、それだけで大きな功徳(くどく)をいただいているのです。
『釈尊の信託と創立の願い』の段落では
高齢者を狙った詐欺(さぎ)犯罪などが世間を騒がせる時代ですから、「悉有仏性だから」といって、だれかれなく信用できるわけではないかもしれません。その意味では、せめて「自分」は嘘をついたり人を誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)したりしないで、人びととたくさんの「信」をはぐくんでいきたいものです。「信」という字は「人(ひと)」と「言(こと)」の組みあわせでできていますが、人の言葉は「心のあらわれ」なので、「マコトを意味する」と、私は学びました。言葉の「言」は「命」のことで、「宇宙、神、仏の命が言葉となってあらわれている」ともあり、そのような言葉を人と交わすのは、お互いに相手を信じているからだといいます。
誠意をもって言葉を発することは、人を信じることや、信じられる人になることにもつながる大切なことです。いかにも当たり前のことですが、それがなかなかできない私たちであると、自戒(じかい)をこめて思わせられます。
信じて任せるといえば、私たちは日々、「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の題目(だいもく)を唱えています。これは、「すべての人が仏となり、幸せになれることを信じて、神仏のはからいにお任せします」と誓っていることにほかなりません。浄土宗の藤井実応(ふじいじつおう)師は、「まかせたる身は安らかで力強い。きょうもアミダの中にともどもに、明るく生きてゆこう」といわれていますが、題目の意味あいに藤井師のこの言葉を重ねると、どのような時代や環境にあっても「明るく生きていこう」という気概(きがい)が湧(わ)いてくるのではないでしょうか。
また本会では、創立以来、「入会者即布教者」を信条としてきました。それも、みんなの幸せを願う釈尊(しゃくそん)からの信託(しんたく)であり、会員のみなさんなら大丈夫という開祖さまの信任によるものです。まずは、前向きに心をととのえ、神仏や人との絆(きずな)を結ぶ「信」を深めてまいりましょう。
と、締めくくられた。
今月は、人事異動にことよせて、人の評価のあり方を、凡夫の“人の好き嫌いや、噂や偏見に基づくもの”ではなく、「悉有仏性」という、仏の立場で人を見れる信心を身に付けることの大切さと、「悉有仏性」だからといって、だれかれなく信用するということではなく、せめて「自分」は嘘をついたり、人を誹謗中傷したりしないで、たくさんの「信」をはぐくむことの精進の大切さを教えて頂きました。「嘱累品」の教えから「すべての人が仏となり、幸せになっていただく」ための実践を釈尊より信託され、開祖さまからも、みなさんなら大丈夫と信任していただいています。
創立記念月を迎え、83年前に開祖さまによって、「私が教団を創立したのは、現実に人を救い、世を立て直そうという熱意のゆえであり、そのためには法華経にこめられた真の仏教精神をひろめるほかにない」という確信を持って教団が創立されました。私たち一人一人がその開祖さまの願いと信任、釈尊の信託にお応えすべく、しっかりと精進させて頂きましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『人さまに喜ばれる人に』というテーマを、
○ 「神力」とは何か、 ○ 人に喜ばれることが「うれしい」
の2段落でご解説いただいた。
まず、『「神力」とは何か』の段落では、
人知(じんち)を超えた不思議な力のことを、よく「神通力(じんづうりき)」とか「神力(じんりき)」といいますが、私たちは、それを「自分には身につけられない特別な能力だ」と思っています。
たしかに、仏教の経典にも「あらゆるものごとを見とおす」とか「全身の毛穴から美しい光を放って世を照らす」といった神秘的なことが神力として説かれますから、そのように思うのもうなずけます。しかし、私たちにできないことを、釈尊(しゃくそん)は説かれないと思うのです。だとすれば、経典にある神通力とか神力とは何を意味するのでしょう。
私は、人間にとって最大の神通力は「心」をもっていること、と受けとめています。言葉を換えれば、人間の「心」の力やはたらきが神通力だということです。考えてみると、心があるからこそ、私たちは人の気持ちがわかります。人が何を求めているのかも理解できます。もちろん、釈尊が悟られた真理を認識できるのも、心があるからです。
開祖さまは「大乗の教えによって真の意味の智慧(ちえ)をもつようになれば、それで神通力を得たのと同然」といっていますから、特別な能力が神通力というよりも、人を思いやったりする日ごろの心のはたらきが、神力といえるほどの力を発揮するということです。たとえば、仏の教えを知り、寄り添ってくれる仲間の支えで「生きながらにして生まれ変わった」という人が本会にはたくさんいますが、ときに不思議としかいいようのない結果や心の転換が起きるのも、私たちの心があらゆる可能性に満ちているからです。
殺人鬼のアングリマーラ(鴦掘魔(おうくつま))が、釈尊のいたわりとお導きによってすぐれた仏弟子となった故事(こじ)も、その証の一つでしょう。「神力」とは、一つには人を思う「まごころ」であり、そのはたらきが生む力をいうのです。
『人に喜ばれることが「うれしい」』の段落では
「神力」について、いま述べたような話をしていたとき、「佼成会は、まごころという『神力』を発揮する人でいっぱいですね」といった人がいましたが、ほんとうにそのとおりだと思います。なぜなら、法華経(ほけきょう)の「如来神力品(にょらいじんりきほん)」によると、神力は人びとを喜ばせるためにあらわすものだからです。「衆生(しゅじょう)を悦ばしめんが為(ため)の故(ゆえ)に 無量(むりょう)の神力を現じたもう」とありますから、私たちが人に明るく、やさしく、あたたかく接することを大切にして、人さまのために心をくだき、思いやりを実践に移すことで少しでも喜んでいただけたら、それが神力の発揮にほかならないのです。
ところで、アンパンマンなどの漫画でおなじみのやなせたかしさんが「いちばんの/よろこびは/ほかのひとを/よろこばせること」(『もうひとつのアンパンマン物語』PHP研究所刊)と記しています。そのうえで、人は人を喜ばせることがいちばんうれしい、人生で最大の楽しみは人を喜ばせることといわれ、漫画家になったのも「全力をつくしてひとをよろこばせたかった」からと綴っておられるのです。それを読んだとき、私は「この方は漫画をとおして人を喜ばせる菩薩(ぼさつ)さまなのだ」と感じ入ると同時に、人に喜ばれる生き方を心がけていれば、だれもが自分のいる場所で菩薩になれることを教えていただく思いがしました。
以前、たとえ寝たきりの人でも、その笑顔や感謝の言葉で人を喜ばせることができるとお話ししましたが、それも大きな神力であり、菩薩のはたらきです。
そうして法を身で説く人は、「無量の菩薩をして 畢竟(ひっきょう)して一乗(いちじょう)に住せしめん」と「如来神力品」は結んでいます。私たちは、みんなが仲よく生きる世界を築く一人ひとりなのです。いつでもまごころをもって、人さまに喜ばれることを喜びとする人でいっぱいの本会でありたいと思います。
と、締めくくられた。
1月号では、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の合掌、礼拝の姿勢を学び、「善いことを、心をこめて、繰り返す」実践の大切さを教えて頂きました。
今月は「神力品」を通して「神力」とは、人を思う「まごころ」であり、そのはたらきが生む力とお示しいただきました。「神力」は人々を喜ばせるためにあらわすもので、私たちが人に明るく、やさしく、あたたかく接することを大切にして、人さまのために心をくだき、思いやりを実践に移すことで少しでも喜んでもらうことの重要性をご指導いただきました。
教会が、そのような「神力」をあらわす人でいっぱいになるように、その人たち(菩薩)が育つ苗代(なわしろ)となれるよう、お互いを合掌、礼拝し、まず自らが喜びをもって今年も精進いたしましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『常不軽菩薩のように』というテーマを、
○合掌・礼拝の精神を体現する、○「常不軽菩薩品」と「雨ニモマケズ」
の2段落でご解説いただいた。
まず、『合掌・礼拝の精神を体現する』の段落では、
新年、明けましておめでとうございます。
本年もまた「善(よ)いこと」を繰り返し行なって、お互いさま美しく豊かな一年にしていきたいものです。そこで、あらためて「善いこと」とは何かについて考えてみましょう。
今年「降誕(ごうたん)八百年」をお迎えになる日蓮聖人(にちれんしょうにん)は、「仏教の肝心は法華経で、法華経の修行を説いたのは不軽品(ふきょうぼん)である。そのなかで、不軽菩薩が人を敬(うやま)われたのはどういう理由からかをよくよく考えてみなさい。釈尊の本懐(ほんかい)(本来の願い)は、人の道――行動や態度を教えることにあったということである」(崇峻天皇御書(すしゅんてんのうごしょ))といっておられます。
そうすると「常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさっぽん)」には、仏の教えを習学する私たちにとって生き方の基本となる、日常生活における「善いこと」が示されていると受けとめてよさそうです。
常不軽菩薩は、みなさんご存じのとおり、出会う人のだれに対しても合掌・礼拝(がっしょう・らいはい)し、「私はあなた方を敬います。決して軽んじません。あなた方は、菩薩の道を行じて必ず仏になる方々だからです」といって賛嘆しました。しかも、そのことによってどんなにひどい仕打ちを受けても、人を見下げたり、怒りや憎しみを抱いたりしないで耐え忍び、罵声(ばせい)や暴力から身を遠ざけながら礼拝行に徹したのです。
「常不軽菩薩品」では、仏性(ぶっしょう)の自覚と菩薩行の実践を中心とする教えが説かれ、その合掌・礼拝の姿勢は仏教を信仰する者のお手本といえます。ただ、よくよく常不軽菩薩のありようを見てみると、合掌や礼拝の「かたち」にとらわれることなく、経文にある「但礼拝(ただらいはい)を行ず」の一語にこめられた精神をかみしめ、味わい、血肉として行動すること、それが、おのずと「善いこと」につながると思うのです。
『「常不軽菩薩品」と「雨ニモマケズ」』の段落では
当たり前のことですが、私たちは太陽や水や空気がなければ生きていけません。大きくとらえれば、そうしたものへの感謝は、私たちとって大切な礼拝行です。天気に文句をいわないのも礼拝の一つであり、水を大切に使い、ものを無駄にしないというのも合掌の一つのかたちでしょう。人に不平不満や愚痴をこぼさないのも、悪口や怒りをぶつけないのも合掌・礼拝の実践ですし、それは相手の仏性を信じて敬う、人間としてのつとめともいえます。
つまり、身近な行動や態度や言葉の一つ一つが、どれも合掌・礼拝を身であらわす行だということです。そして、そのことをとおして、私たちは自分の仏性を自覚し、また相手にも、みずからの仏性を自覚せしめているのです。
童話作家として知られる宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の一節「ミンナニデクノボーウトヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」は、常不軽菩薩の影響を受けた賢治の願いと生き方をあらわしているといわれます。そのようなことから、この詩をあらためて「常不軽菩薩品」に重ねる気持ちで読んでみたところ、私はこれまで以上に感銘を受けました。なぜかといえば、この詩は、法華経の信仰に生きた賢治の言葉でやさしく翻訳された「常不軽菩薩品」そのもので、法華経に縁のない人が読んでも、常不軽菩薩のような生き方――菩薩としての行動や態度が、よくわかると感じたからです。
「慾(よく)ハナク/決シテ瞋(いか)ラズ」はいわずもがなですが、「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ」は「まず人さま」の姿勢を示し、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」は、人間の力ではどうすることもできない苦難と向きあう人にそっと寄り添う、慈悲(じひ)の祈りにほかなりません。
みなさんも何かの機会にぜひ、この詩をじっくりと味わってみてはいかがでしょう。
と、締めくくられた。
年頭にあたり、今年の修行精進の心構えをいただきました。ご本仏のおはからいで、今月号は、ちょうど年頭のご法話にあたり、そのご解説が、「常不軽菩薩品」ということが意義深く思います。
ご法話の冒頭、修行の三要素(授記品)「善いことを、心をこめて、繰り返す」をお示しいただき、「善いこと」とは、出会う人の「仏性」を礼拝することとお示しいただきました。
このご指導は、昭和20年のご神示にある会の行法観が、私たちの基本的な行法観であることを再確認することと受けとめ、今年の修行目標として、身近な行動や態度や言葉の一つひとつを戒め、しっかり精進させて頂くことを誓願させていただきましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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今月は、『清々しい毎日をおくる』というテーマを、
○ 「即ち是れ道場なり」、○ 心がきれいになると
の2段落でご解説いただいた。
まず、『「即ち是れ道場なり」』の段落では、
今年は、私たちのだれもが、これまでの生活スタイルを変えざるを得ない状況に見舞われた一年でした。それは、もちろん新型コロナウイルスの影響によるものです。
みなさんのなかには、ウイルスに感染した方や、身近な人を亡くした方がいるかもしれません。そうした多くの人の身心の痛みが、この病気への不安とともに、一日も早くなくなることを祈っているのは私だけではないでしょう。
ただ、生活スタイルがどう変わろうとも、忘れてはいけないことがあります。
「法華経の信仰に生きる人の生活の場は、どのようなところでも、そこが道場である」、「法華経で修行とは、私たちの日常生活の最中(ただなか)である」(久保田正文(しょうぶん)師)といいます。
その意味でみなさんは、このコロナ禍にあって、仮に不安や恐れを感じるときでも、思いやりを忘れずに人とふれあってきたでしょうか。自粛警察(じしゅくけいさつ)という言葉も生まれましたが、自分とは違う意見の人の姿勢をも理解し、やさしく、柔軟(じゅうなん)に受けとめられたでしょうか。「即(すなわち)ち是れ道場(どうじょう)なり」ですから、そういう日常の一つ一つが精進(しょうじん)の機会なのです。
『心がきれいになると』の段落では
法華経の「法師功徳品(ほっしくどくほん)」には、生きる姿勢や日々の言動をとおして法華経の教えを実践し、世に弘(ひろ)める人は、六根(ろっこん)(眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い))が清らかになるとあります。
「六根清浄(しょうじょう)」といえば日本ではよく、この言葉を唱えながら山に登ります。空気も景色もきれいな自然に包まれて山頂をめざすとき、だれもが身も心も洗われていく ―― それは、山そのものが放つ霊妙(れいみょう)な神気(しんき)と、山をつかさどる神仏のはたらきをいただいて、五感が研(と)ぎ澄まされ、自分本来の無垢(むく)な心をとり戻すということかもしれません。
しかし、私たちは、登山をしなくても、清くおだやかな気持ちでものごとを受けとめ、毎日を清々(すがすが)しくすごす方法を知っています。その一つが、「即是道場(そくぜどうじょう)」の実践でしょう。
人の善いところが見えて悪いところを探す気持ちが起きない。なんでもおいしくいただける。読経供養(どきょうくよう)が習慣となり、人に会うと思わず合掌(がっしょう)してしまう。こういうことを無意識のうちに行なっているとすれば、きれいな心で円満な毎日をおくっているといえるのではないでしょうか。
私の恩師である坂本幸男(さかもとゆきお)先生は「われわれの日常生活がそのまま仏道修行であり、それが同時に仏作仏行(ぶっさぶつぎょう)、すなわち仏の衆生救済(しゅじょうきゅうさい)の活動である」と述べています。すると、私たちは日々の精進を重ねながら、同時にその実践によって救われているといえます。心にわだかまりのない、すっきりとした幸せをつねに味わっているということです。
「法華経を持(たも)つ者は 意根浄(いこんきよ)きこと斯(か)の若(ごと)くならん 未だ無漏(むろ)を得ずと雖(いえど)も 先ず是(かく)の如き相(そう)あらん 是の人此の経を持(たも)ち 稀有(けう)の地に安住して 一切衆生(いっさいしゅじょう)の 歓喜して愛敬(あいきょう)することを為(え)ん」(法華経の教えを持(たも)つ人は、心が清浄なためにさまざまなはたらきができて、たとえ迷いがすっかりなくなっていなくても、高い境地に心安らかにとどまり、多くの人に親しまれ、敬(うやま)われることでしょう)
この「法師功徳品」の一説が、これまでお話ししてきたことをはからずも端的(たんてき)に示しています。しかも、ここで仏が語りかけている相手は「常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)」です。勝手な解釈をすれば、釈尊が私たちに「いつでも、どこでも、だれに対しても、思いやりとやさしさ、そして温かな気持ちを忘れない菩薩であれ」と励ましてくださっているようです。
年末になると、どこのご家庭でも大掃除をしますが、清々しい気持ちで新年を迎えるためには、私たち自身も心の煤払(すすはら)いが必要でしょう。この一年をふり返るとき、あなたの胸には、仏のどのような励ましの声が届くでしょうか。
と、締めくくられた。
寿量品の説法の後、本仏の寿命の無量(永遠)であることを感得できたものの心にいただく功徳を、分別・随喜・法師功徳品としてお示しいただきました。
分別功徳品では仏の寿命の無量であることをしっかり悟ったものへ、十二に分別して功徳を説かれ、
随喜功徳品では初随喜の功徳について、その感激は五十展転しても変わらないとお示しいただき、
特に法師功徳品では、法師の自覚に立たせて頂いているものが取り組む「五種法師」の行が、六根それぞれに受ける功徳について詳しくお説きくださいました。そして、その功徳とは六根が清浄にならせて頂けるということです。
十七・十八・十九の三品はいずれも功徳品であります。心にいただく功徳を感謝でいただき、清々しい気持ちで新年が迎えられるよう心の煤払いをすべく、善いことを、心を込めて繰り返す精進をお誓いいたしましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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今月は、『「ありがたい」といえる幸せ』というテーマを、
○ 随喜(ずいき)の心、○ 私たちが「感謝」できるのは
の2段落でご解説いただいた。
まず、『随喜の心』の段落では、
法華経の『随喜功徳品(ずいきくどくほん)』には、教えを聞いて心から歓喜した人が、その喜びを別の人に伝えることの功徳が説かれています。教えを聞いて、心から「ありがたい」と受けとれば、それをだれかに伝えたくなります。そうして人から人へとその感動と喜びが伝わり、五十番めに聞いた人が「ありがたい」と感じるその功徳はとても大きく、ましてや、最初に随喜の心を起こした人が得る功徳は計り知れないというのが、よく知られる「五十展転(ごじゅうてんでん)」の教えです。
ただ、この「随喜」という言葉には、「他人の善い行ないを見て、心に歓喜を生じること」という意味があります。
みなさんも、善い行ないをしている人を見たり聞いたりしたときに、心を動かされることがあると思います。
災害に見舞われた地域の復興に協力するボランティアの人や、新型コロナウイルスに関連して、懸命に尽力される医療従事者のみなさんの姿を報道などで見るたびに、敬意とともに感動を覚える人も多いのではないでしょうか。
また、日常ふと目にした何気ないひとこまが、胸にさわやかな喜びと余韻(よいん)を運んでくれることもあります。
新聞で読んだのですが、電車の中で2歳くらいの女の子が、乗客一人ひとりに、ちょこちょこと歩み寄ってはペコリと頭を下げ、あいさつをしてまわる様子が語られていました。走行中の車内を歩かせるなんて、と目くじらを立てる人は一人もいなくて、その無垢(むく)な姿にみんなが心を動かされ、車内があたたかな空気に包まれたというのです。
では、医療従事者にしても、電車内の童女にしても、そのような光景を見たときに、私たちがどうして感動したり、心を癒(いや)されたり、喜びを覚えたりするのでしょうか。
それは、童女と同じ無垢な心や、苦しむ人を助けたいという医療従事者と同じ気持ちが、私たちにもあるからです。実際に行動していなくても、善い行ないに心を打たれたとき、自分はもうそこに参加しているのです。あとは、その思いをどう体現するか、ということかもしれません。
『私たちが「感謝」できるのは』の段落では
人それぞれに個性も違い、気力・体力や立場も違いますから、人によってできることは異なります。ですから、たとえば、だれもがスーパーボランティアといわれるような方のまねはできないでしょう。ただ、感動や歓喜を生きる力に変えたり、すばらしいできごとに出会って「ありがたい」と感謝したりできるのは、人間独特の感性といわれます。
しかし、よく考えてみると、人間以外の動物や植物は、感謝することはできなくても、それぞれの役割を全うしつつ、大きな調和を保って生きています。心をもつ人間だけが、嫉妬や怒りや欲に迷い、ときに不調和に苦しみながら生きているのです。つまり、人間が感謝できるのは、そのことによってこそ、大自然と調和できるからだとはいえないでしょうか。私たちが自らの心の調和を保ち、家庭や社会でみんなと仲よく生きるには、いつも「ありがたい」と感謝できる人間になることが大切である、ということです。
幸いなことに、私たちは、何ごとも素直に「ありがたい」とか「うれしい」と受けとめることで、ほんとうの心の安らぎが得られることを知っています。そして、お金や地位があろうがなかろうが、いつでも幸せを感じられる、ほんものの人間になりたいと精進しています。
その感動と感謝が凝縮(ぎょうしゅく)された一節が、法句経(ほっくぎょう)の「人の生(しょう)を受くるは難(かた)く やがて死すべきものの いま生命(いのち)あるは有り難し」でしょう。命をいただき、いまここに生きる人間の本質的な喜びを、「五十展転」さながら、素直に人に伝えていくとき、まことの幸せが広がるのです。
と、締めくくられた。
「随喜功徳品」は、「初随喜(しょずいき)」の功徳をさらに強調し、くわしく説かれています。教えに随喜する、すなわち心から「ありがたい」と感ずるその感激が、信仰にとって欠くことができない根本の要素であります。
「ありがたい」という感激が起こらなければ、いかに万巻の経典を読み、あらゆる教理をそらんじていても、それは仏教学に通じているだけであって、仏を信じているとはいえません。随喜の念があってこそ、信仰といえるのです。
釈尊は、その随喜を感じた人が、どんな所でもいいから、いま聞いた教えを聞いたとおりに、まわりの人に向かって、自分の力の限りの程度でいいから話してあげると、それを聞いた人が随喜の心を起こして伝えると、それが五十回くりかえされてもその功徳は大きいものがある。と、説かれます。「開祖さま生誕会(せいたんえ)」を喜びをもってお迎えし、救われたれた感激を多くの人にお伝えすることで、報恩感謝の実践とさせて頂きましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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および教会における行事予定を、一部変更いたします。
※【一般参拝】: 各会員様は、所属支部当番の日に参拝。
但し、検温の上、マスク着用・手指消毒を行い、人数・換気に留意し
密集状態にならないよう徹底を心掛けて下さい
※ 家庭修養日は、教会道場・・完全閉鎖
( 11/2 11/6 11/12 11/16 11/25 11/26 )
11月 1日(日) 9:00〜 朔日参り(布薩の日) ご供養
(本部よりYouTube配信があります)
13:00〜 七五三 (該当ご家族のみ)
11月 4日(水) 9:00〜 開祖さまご命日 ご供養
11月10日(火) 9:00〜 脇祖さまご命日 ご供養
(但馬道場より光ファイバーによる中継があります)
11月15日(日) 9:00〜 開祖さま生誕会
釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)ご供養
(本部よりYouTube配信があります)
11月28日(土) 9:00〜 感謝のお礼参り ご供養
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『心が変われば、生き方が変わる』というテーマを、
○ みんな同じ仏の弟子、○ 「信じる」ということ
の2段落でご解説いただいた。
まず、『みんな同じ仏の弟子』の段落では、
先月号の本誌で、釈尊と仏弟子の話をご紹介しました。
あらためて申しあげれば、物覚えの悪さから人にさげすまれ、卑屈になっていたチューラパンタカ(周利槃特)が、釈尊のお言葉を素直に信じて実践した結果、「心の塵を払う」ことが大事だと悟って、生き方が一変した話です。
「心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる」(ウィリアム・ジェームズ)という、人間の本質をついた名言があります。まるで、先の話を参考にしたかのような言葉ですが、心が変われば生き方が変わり、それは運命、すなわち「めぐりあわせ」も変えるというのです。
言葉を換えれば「縁(えん)」が変わるということですが、それは、チューラパンタカのように大事なことに気づいて心が定まると、縁の受けとめ方が変わって、不都合な縁であっても生かしていくことができるということでしょう。
さて、では私たちの場合はどうでしょうか――といわれただけで、「難しくて、とても自分にはできない」と卑屈に思ってしまう人もいるかもしれません。しかし、私たちもまた、チューラパンタカと同じく、仏の教えをいただく仏弟子であることを忘れてはいけません。いにしえの仏弟子と同様に、悩んだり苦しんだりするなかで仏の教えに出会い、大事なことに気づかせていただいた私たちなのです。
ですから、目先の欲に流されないとか、感情にまかせて怒らないとか、ものごとの変化をありのまま受けとめるなど、人により、場合によって「心の塵」の払い方はいろいろあると思いますが、仏の教えを素直に信じて、行じていけば、おのずと運命が変わっていくのだと思います。
『「信じる」ということ』の段落では
仏の教えを信じて行じるといいましたが、それが大事だとわかっていても、私たちはときおり心がぐらついて、教えの軌道(きどう)を外れ、自己中心の言動に走ってしまいます。
その原因は、教えを「信じて」というところにあるかもしれません。開祖さまは、「信仰は、ただやみくもに信ずるというのではなく、真理にめざめて信ずる」ことだといっています。つまり、ただ信じればいいのが信仰ではなくて、諸行無常(しょぎょうむじょう)や諸法無我(しょほうむが)、縁起(えんぎ)の教えといった「真理(真実の道理)・仏法」を学んだら、それに照らしてものごとを見たり考えたりするという、「智慧(ちえ)」に根ざした生活を送ることが、「仏の教えを信じる」ことであり、「信仰」なのです。
ちなみに「信心」というのは、私たち人間が仏と同じものを具(そな)えていることを「信じる心」のことです。ですから、仏を信じる、釈尊を信じるというのは、人間そのものを信じ、まわりの人の仏性(ぶっしょう)を素直に信じることを意味します。
そのように考えると、教えを信じて行じることの基本は、いま目の前にいる人を信じて尊(とうと)ぶことに尽きる、といえるのではないでしょうか。
ところで、法華経の「分別功徳品(ふんべつくどくほん)」に、「仏の寿命の長遠(じょうおん)是の如くなるを聞いて、乃至能(ないしよ)く一念の信解(しんげ)を生ぜば、所得(しょとく)の功徳限量(くどくげんりょう)あることなけん」とあります。これまでにもたびたび述べてきたことですが、私たちが仏とともに永遠のいのちを生きていることや、みんな仏性なのだということを、たとえ一瞬でも信じて、「なるほど」と思ったら、それだけで計り知れない功徳があるというのです。
もう、みなさんおわかりでしょうが、たとえば、だれもが仏と同じいのちを生きる仏性のあらわれなのだ、ということが腑(ふ)に落ちると、人との接し方や言葉の受けとめ方が変わらないでしょうか。心の据(す)え方一つで、いつでも仏と同じ大きな心で楽々と生きられる人生が開けるのです。
と、締めくくられた。
「如来寿量品」の説法によって、仏の寿命は無量であり、仏はつねにこの世におられて、あらゆる場所において一切の人間を導いてくださっていることを知った衆生は,自分らはつねに仏に生かされ、守られ、導かれているという確信を得て深い喜びを味わうことができました。
この本ではその喜びの心の功徳を十二段階に分別してお説きになられ、また、要点として「在世の四信」(釈尊ご在世中の信仰のありかた)、「滅後の五品」(末世における信仰の在り方)を説かれ、ご法話では「在世の四信」1.一念信解、2略解言趣、3.広為他説、4.深信観成 の最初の”一念信解”をお示しいただきました。そして、私たちは、「滅後の五品」で示される1.初随喜、2.読誦、3.説法、4.兼行六度、5.正行六度を実践させていただくことをお誓いさせて頂きましょう。
(※法華経の新しい解釈 P.468〜483 参照)
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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および教会における行事予定を、一部変更いたします。
※【一般参拝】: 各会員様は、所属支部当番の日に参拝。
但し、検温の上、マスク着用・手指消毒を行い、人数・換気に留意し
密集状態にならないよう徹底を心掛けて下さい。
10/1は当番支部以外では、姫路南支部も一般参拝は可といたします。
10/15は当番支部以外では、加古川第2支部も一般参拝は可といたし
ます。
※ 家庭修養日は、教会道場・・完全閉鎖
( 10/2 10/6 10/12 10/16 10/22 10/27 )
10月 1日(木) 9:00〜 朔日参り(布薩の日) ご供養
(本部よりYouTube配信があります)
10月 4日(日) 9:00〜 開祖さま入寂会 ご供養
(本部よりYouTube配信があります)
10月10日(土) 9:00〜 脇祖さまご命日 ご供養
(但馬道場より光ファイバーによる中継があります)
10月13日(火) 9:00〜 日蓮聖人遠忌法要
(本部よりYouTube配信があります)
10月15日(木) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)ご供養
(本部よりYouTube配信があります)
10月26日(月) 13:30〜 太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊
と平和の祈り
10月28日(水) 9:00〜 感謝のお礼参り ご供養
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『ともに悲しむ心』というテーマを、
○ 人の悲しみを悲しむ心情、○ 自他の仏性が輝くように
の2段落でご解説いただいた。
まず、『人の悲しみを悲しむ心情』の段落では、
最初に、詩の一節をご紹介しましょう。福島県の高校で国語の教師をつとめるかたわら、詩人としても活躍する和合亮一(わごうりょういち)さんの、「ともに」という詩です。
「あなたの涙が/わたしに/教えてくれたこと/人は弱い/人は悲しい/人は切ない/だけど/ぬくもりがある/人は人を想う/人は人を愛する/人は人に涙する/あなたも/わたしも/さびしい/だけど/あなたも/わたしも/共に/生きている」(『十万光年の詩(うた)』佼成出版社刊)
つらい経験をして悲嘆(ひたん)にくれる人に出会ったとき、私たちはこの詩のように、相手を思い、ときにはともに涙したり、手をとって「いつでもそばにいますよ」と励ましたりします。それは、私たちが人の苦しみに共感して、ともに悲しむことができるという、他の動物にはない懐(ゆか)しい心情をもつ人間として生まれたからです。
その共感力といえるようなものは、生きること、老いること、病むこと、死を迎えることなどをとおして、つらく悲しい気持ちをたくさん味わった人ほど、より発揮されるのだと思います。まして信仰をもつ人であればなおのこと、人の苦しみや悲しみがよくわかり、身につまされるのではないでしょうか。なぜなら、数学者の岡潔(おかきよし)さんの言葉をお借りすれば、「人の悲しみがわかること、そして自分もまた悲しいと感じることが宗教の本質」といえるからです。
そしてその本質は、法華経「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」の掉尾(ちょうび)を飾る、「何を以てか衆生をして 無上道に入り 速やかに仏身を成就することを得せしめんと」の一句にも示されています。
『自他の仏性が輝くように』の段落では
9月のいまごろのことを、暦のうえでは「白露(はくろ)」といいます。朝の草花に宿った露(つゆ)が、日光をあびて輝くさまのことですが、露には「露の世」という言葉に見られるように、はかない印象もあります。しかし先の一句は、露のようにはかなく思える無常の世にあっても、「悲しみにくれる人がいないように」「だれもが仏性に目ざめて救われるように」と願う、仏の切なる思いを伝えているのです。それはまた、菩薩として人に寄り添う生き方を私たちに示します。
つらい立場の人に寄り添うということでは、釈尊とチューラパンタカ(周利槃特(しゅりはんどく))の逸話がよく知られています。
ひどく物覚えの悪かったチューラパンタカは、出家して3か月がすぎても、教えの一節すら覚えられません。そのために、先に釈尊の弟子になっていた兄から「もう出ていきなさい」と、たしなめられるのです。ところが釈尊は、自分の愚かさを嘆(なげ)き、泣き沈むチューラパンタカに、一本のほうきを手渡して諭(さと)します。これで毎日、周囲の掃除をして「塵(ちり)を払わん、垢(あか)を払わん」と唱えるように、と。
やがてチューラパンタカは、その言葉を覚えると同時に「心の掃除が大事なのだ」と気づいて感激し、ついには釈尊の弟子の中でも重きをなすようになったのです。
チューラパンタカの心を救い、悲しみや絶望感を喜びに転じさせたのは、ひたすらに仏性を信じて寄り添う、釈尊の大慈大悲(だいじだいひ)から生まれるやさしさにほかならないでしょう。
先ほど「無常の世」といいましたが、私たちは、はるかな過去から生まれ変わり死に変わりするなかで、いま、ここに生かされています。それは、善いことも悪いことも含めた過去の経験を内包(ないほう)しつつ、私たちが仏と同じ「永遠のいのち」を生きているということです。
善も悪ももちあわせる私たちの、だれにも共通するのは、仏性という揺るぎない本質です。だからこそ、私たちは自他の仏性が輝くようなふれあい、とりわけ悲しむ人に喜びを与える縁となる実践が、大切だと思うのです。
と、締めくくられた。
今月は、「ともに悲しむ心」というテーマで、8月に引き続き「如来寿量品」を背景に解説をいただきました。
寿量品を通じて、すでに悟りを開いた、成仏している自分であるという立場に立つことの大切さ、本仏と一体であることの視点に立つことの重要性を会長先生は促していただいています。
そして、人さまをお救いするときに必要なことは、釈尊がチューラパンタカを救われた、大慈大悲から生まれるやさしさに他ならない。そのやさしさの基本は共感力であり、四苦を味わった人は、人の苦しみや悲しみがよくわかる。
つまり、人さまの苦しみや悲しみを取り除いていこうという自覚に立てたら、今のままの自分で十分お役に立てると思えると、布教伝道への意欲が湧いてくるのを覚え、心配行に一所懸命精進させて頂きたいと思います。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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および教会における行事予定を、一部変更いたします。
※【一般参拝】: 各会員様は、所属支部当番の日に参拝。
但し、検温の上、マスク着用・手指消毒を行い、人数・換気に留意し
密集状態にならないよう徹底を心掛けて下さい。
9/15は当番支部以外では、姫路東支部も一般参拝は可といたします。
※ 家庭修養日は、教会道場・・完全閉鎖
( 9/2 9/6 9/12 9/16 9/22 9/26 )
9月 1日(火) 9:00〜 朔日参り(布薩の日) ご供養
(本部よりYouTube配信があります)
9月 4日(金) 9:00〜 開祖さまご命日 ご供養
9月10日(木) 9:00〜 脇祖さま報恩会 ご供養
(本部よりYouTube配信があります)
9月15日(火) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日) ご供養
(本部よりYouTube配信があります)
9月20日(日) 9:00〜 秋季彼岸会 ご供養
(※一般参拝は御座いません)
9月28日(月) 9:00〜 感謝のお礼参り ご供養
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『むだなものはない』 というテーマを、
○ 「仏に帰る」ための精進、○ 自分のことのように
の2段落でご解説いただいた。
まず、『「仏に帰る」ための精進』の段落では、
先日、ある方から「仏になるためには、どんな実践や工夫をすればいいのでしょうか」と尋ねられました。仏教を「仏になるための教え」と説明することがあるので、そのためには何をしたらいいのか、という問いかけです。
しかし、法華経の「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」をよく味わうと、どうやら私たちは、仏になるために精進するわけではないようです。そこで、私の理解の範囲でこうお話ししました。
「仏になるというのは、『悟りを得る』ことを指すのかもしれませんが、その意味でいえば、私たちはすでに悟っている、と教えられてあります。ですから、仏になるために修行を、工夫をするというよりも、悟ったあとの精進をしている、それがいまの私たちの日常生活といえるかもしれません」と。ではなぜ、精進をつづけるのかといえば、私たちがときどき自分の本質を忘れてしまうからです。悟っている「ほんとうの自分」に帰るための精進、それが日常の信仰生活なのです。
いろいろな悩みや苦しみに出合う人生ですが、私たちはすでに悟っているのですから、その自分(自己)を信じ、また人さま(*他己(たこ))を信じて、ともに精進することによって、この世界がそのまま「寂光土(じゃっこうど)」となることを教えていただいているのです。そのような仏の教えと出会い、命の尊さを自覚させていただけばこそ、文字どおり有り難い日々をすごせるのですが、残念なことにその幸せな自分を、私たちはときどき忘れては、苦しんでいるのです。
『自分のことのように』の段落では
ところで「如来寿量品」には、「如来の演(の)ぶる所の経典は、皆(みな)衆生を度脱(どだつ)せんが為なり」(仏の教えはすべて、人びとを迷いの世界から救うためのものです)とあります。
度脱とか迷いの世界から救うというと難しい印象ですが、要するに、いつでも心から、幸せだ、うれしい、楽しいといえる人間になるということです。そして私たちは、自分の本質を忘れなければ、その幸せを実感できるのです。
そこで、仏さまはさまざまなかたちで、あるいはものごとをとおして、私たちが迷いの世界から離れるヒントを与えてくれています。万億(まんのく)の方便(ほうべん)と経文にあるように、聖人や賢人(けんじん)の教えだけでなく、いいことも悪いことも含めたこの世のあらゆるできごとが、「ほんとうの自分」に帰って幸せを味わうためのヒント、縁になるということです。
人によっては、ケガや病気によってほんとうの自分に気づくかもしれませんし、人の痛みが理解できるようになって初めて、慈悲(じひ)の心が呼び覚まされる人があるかもしれません。また、人の幸せを見てわがことのようにうれしくなったり、感動の涙がこぼれたりしたら、それは自分の仏性が現れているからでしょう。
仏は、すべての人が救われるように、幸せになるようにと願われていますが、私たちが人の悲しみや喜びを自分のこととして受けとめていくと、その仏の願いが自分の心に根づいていることに思い至るのです。
新型コロナウイルスの感染拡大など、世界に広がる現象も、私たち一人ひとりにいろいろなことを教えてくれます。私たちが、自分のこととして受けとめ、学べば、この世にむだなものごとは何一つなく、その一つ一つが「ほんとうの自分」、すなわち仏に帰る縁となるのです。
余談ですが、遠い国の人のことを自分に重ねて思い、世界じゅうの人の幸せを祈る人たちは、みんな願いを一つにする仲間、いわば世界サンガの一員といえます。
自他の仏性を信じる私たちの「信心」、つまり信仰が、世界にほんとうの幸せを広げる原点となるでしょう。
(*他己(たこ)):他の人やいっさいの存在のことーーー
自他一如と見れば、自分以外のすべてが「自己」と
一体の「他己」といえる
と、締めくくられた。
今月は、「むだなものはない」というテーマで、「如来寿量品」を背景に解説をいただきました。
冒頭、寿量品をよく味わうと、「仏になるために精進するのではなく、悟ったあとの精進をしている」と教えていただきました。
「法華経」は自覚の教えといわれます、迹門では、開三顕一を通して法師の自覚に立つことを促され、本門に入った「従地涌出品」では本化の菩薩としての自覚(四大菩薩の誓願)に立って、布教伝道することをお示しくださいました。
そして、「寿量品」の「良医の譬え」で、愚痴の心により、誤って毒薬を飲んでしまい本心を失った子供が、本仏の慈悲により、救われていた自分に気づき、すでに救われていた自分を思い出し、精進を重ねていく(良薬を飲む)、つまり「三つの基本信行」を実践する決定をさせていただくことを教えて頂きました。
ともすると私たちはすぐに、「いくら頑張ってもダメな自分」とか、「いくら心配してもわかってくれない相手」と思い、挫折しそうになりますが、そうではなく、「仏の慈悲を備えた自分、本当は幸せになりたいと思っている相手」双方の本質(仏性)を信じるために精進をする、と、見方をきりかえ、布教伝道の再開に向け心構えとさせていただきたい。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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および教会における行事予定を、一部変更いたします。
※【一般参拝】: 各自、所属支部当番の日に参拝。
但し、検温の上、マスク着用・手指消毒を行い、人数・換気に留意し
密集状態にならないよう徹底を心掛けて下さい。
※ 家庭修養日は、教会道場・・完全閉鎖
( 8/2 8/6 8/16 8/17 8/21 8/26 )
自由参拝日は、 教会道場・・完全閉鎖
( 8/11 8/12 8/13 8/14 )
8月 1日(土) 9:00〜 朔日参り(布薩の日) ご供養
8月 4日(火) 9:00〜 開祖さまご命日 ご供養
8月10日(月) 9:00〜 脇祖さまご命日 ご供養
8月15日(土) 9:00〜 戦争犠牲者慰霊・平和祈願の日 ご供養
8月28日(金) 9:00〜 感謝のお礼参り ご供養
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『いま、自分にできることを』というテーマを、
○ 菩薩として何を願い、誓うか ○ いまが「習学」のチャンス
の2段落でご解説いただいた。
まず、『菩薩として何を願い、誓うか』の段落では、
「信心の母にしたがふ盆會(ぼんえ)かな」(飯田蛇笏(いいだだこつ))と詠まれる盂蘭盆(うらぼんえ)の法要も、今月、家族そろって教会道場やお寺に参拝してとなると、それはまだ難しい情勢かもしれません。
仏心とは「一切衆生(いっさいしゅじょう)を救うの心」と教えられていますから、私たちは、いま世界中に広がっている病気によって苦しむ人たちに心を寄せ、事態が早く終息に向かうことを願うばかりです。一人ひとりが、自分にできることは何かを考え、それを日々、粛々と実践していきたいと思います。
それで思い起こされるのが、大地から忽然と湧き出て、この娑婆(しゃば)世界で仏の教えを弘め、実践をとおして「すべての人を救おう」と誓う無数の菩薩(ぼさつ)たちです。
法華経(ほけきょう)の「従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)」に登場するそれら「地涌(じゆ)の菩薩」の代表が、上行(じょうぎょう)、無辺行(むへんぎょう)、浄行(じょうぎょう)、安立行(あんりゅうぎょう)の四菩薩ですが、これは、仏道を歩むものが最初に「仏さまのようになりたい」と願ったとき、つまり菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)したときに誓う「四弘誓願(しぐせいがん)」を象徴的に示しているものと受けとめられます。
上行 ―― 仏の道は無上であろうとも、必ず成就しよう。
(仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう))
無辺行 ―― 仏の教えは無尽であろうとも、必ず学び尽くそう。
(法門無尽誓願学(ほうもんむじんせいがんがく))
浄行 ―― 煩悩(ぼんのう)の数は無数であろうとも、必ずすべてを断ち切ろう。
(煩悩無数誓願断(ぼんのうむしゅせいがんだん))
安立行 ―― 衆生の数は無辺であろうとも、必ず救い尽そう。
(衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど))
ただ、この四つの誓願のそれぞれを生活に重ねあわせて、日常どのように実践すればいいのかに迷う人もいそうです。仏教を易しく説かれた、禅宗の松原泰道師は、「四弘誓願」を実践的な人生訓として次のように表現しています。
衆生無辺誓願度 ―― 身近な人に奉仕(布施)をしよう。
煩悩無数誓願断 ―― 足もとのごみを一つ拾おう。
法門無尽誓願学 ―― 一日に一つ、教えを学ぼう。
仏道無上誓願成 ―― 永遠の路(みち)を一歩一歩ゆっくり歩もう。
みなさんはいま、仏道を歩む菩薩として何を願い、何を誓って、一日一日をすごしているでしょうか。
『いまが「習学」のチャンス』の段落では
「四弘誓願」を参考にして、自分にいま何ができるかを考える人は、いうまでもなく仏の教えを信じ、実践する志(こころざし)のある人ですが、それは仏と同じ心になっているということです。「そういわれても」と、気後(きおく)れする人があるかもしれませんが、教えにふれて「仏さまのようになりたい」という気持ちを起こしたとき、私たちはすでに、仏の心と一つになっているのです。
仏と私たちは、「一体不二(いったいふに)」といわれます。凡人も聖人も、その本質は一つという意味の「凡聖不二(ぼんしょうふに)」という言葉もあります。私たちに仏の教えの尊さがわかるのは、その根っこにある「すべての人を救いたい」という尊い願いが自分にもあるからです。人間として命をいただいたということは、仏と同じものを具(そな)えているということ――それを信じることが信仰であり、信心といえるでしょう。
その意味で、いまはまさに、自分の信仰のありようをふり返り、日々の実践という「習学(しゅうがく)」の繰り返しをとおして、菩薩の自覚を高めるいい機会なのかもしれません。
ところで「従地涌出品」では、先の四菩薩のような人を、「衆生の見んと楽(ねが)う所」、すなわち「すべての人がお目にかかりたいと渇望(かつぼう)するような方々」だといいます。
私にも、本会の先輩や他宗教の方のなかに、「またお目にかかりたい」と思わせられる方がいますが、その方々に共通するのは、神仏などを尊び敬う心が強く、一方では苦しみや悲しみの底に沈む人を常に思いやる、情愛あふれるという点です。私たちも、そのような菩提心を発して、日々に精進(しょうじん)をしてまいりましょう。
と、締めくくられた。
いよいよ布教活動が再開されるようになり、幹部さん方は、教会活動はまだ制限がありますが、信者さんの手取りは、三密を避けて進めていけるようになりました。
心配行をさせて頂くにあたり、今月の会長先生のご指導から、まず自らの精進の方向を定め、本化地涌の菩薩(実践を旨とする菩薩、本仏から教化された菩薩)の自覚に立って「四弘誓願」の心を誓わせて頂きましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『怠け心に負けない』というテーマを、
○ 精進が大事と知りながら、○ 待っている人がいる
の2段落でご解説いただいた。
まず、『精進が大事と知りながら』の段落では、
昔の流行歌に、「わかっちゃいるけど やめられねえ」という一節があ
りました。おもしろおかしい表現ながら、私たちの心のはたらきをみごと
にあらわしています。
現に私たちは、ともすると、なすべきことを怠ったり、しないと決めた
ことを、ついしてしまったりします。お互いさま、「わかっちゃいるけど
・・・・」と、反省することが少なくないのではないでしょうか。
ところで仏教では、「常精進(じょうしょうじん)」が大事と教えます。また、
儒教などの聖賢(せいけん)の教えでも、常に学び、身を修める努力をつづけ
ることの大切さが説かれます。それは、人間の心の成長に「これでいい」
という終わりがないからでしょう。
一般に仏道は、「この上なくすぐれた道」という意味で、「無上道
(むじょうどう)」といいます。ただ、私はこの言葉の意味も「たとえ悟ったと
思っても、そこがこの道の終点ではない。智慧に目ざめる可能性に、際限
はないのだ」と受けとめるほうが、向上をめざす活力が湧いてくるように
思うのです。
だからこそ常精進が大切なのですが、私たちはつい「少しくらいサボっ
ても」といった思いに負けてしまいます。
「嬾惰(らんだ)の意(こころ)及び懈怠(けだい)の想を除き 諸の憂悩(うのう)を離
れて 慈心をもって法を説け」とは、法華経「安楽行品(あんらくぎょうほん)」
の一節です。だれもが抱く、サボりたいとか飽きたという気持ちを釈尊も
よく理解されていたのでしょう、「心の内から湧いてくるさまざまな誘惑
や迷いをふり払い、安らかな心で、みずから楽(ねが)って、喜びのうちに精
進できるように」と、釈尊は私たちにこの品を説いてくださったのだと思
います。
『待っている人がいる』の段落では
「学んで時に之(これ)を習う。また説(よろこ)ばしからずや」。孔子の言葉
です。子どもが大人を見て「あのようになりたい」と思い、その真似を繰
り返すように、目標をもって学び習うとき、それが楽しくて仕方なくなる
という意味です。
このことは、信仰の世界にもいえます。「笑顔を心がけよう」「感謝を
忘れない」・・・など、なんであれ、日々の目標や信仰の目的が自覚でき
れば、あとはその思い(心)を貫くための精進を繰り返す(習う)だけで
す。それが「習慣」となって身につくことで、喜びはさらに増します。
そう考えると、自分がなぜ信仰しているのか、なんのために日々精進す
るのかという、目標や目的をつかむことが、喜びのうちに精進する基本と
なるのでしょう。
しかし、それがわかっていてもなお、内心の誘惑に負けてしまうのが人
間です。ただ、迷うのも楽をしたいと思うのも自然なことで、ときには心
の逃げ場も必要だと思います。そのとき、目的や目標を忘れなければいい
のです。
また、たとえば読経供養にしても、サンガ(同信の仲間)の集まりにし
ても、決めたことだからといって無理をすることがいいとは思えません。
体調がすぐれなかったり忙しかったりして疲れたら、休んでいいのです。
精進をつづけるためにも、無理は禁物だということです。
「安楽行品」には、「一切を慈悲して 懈怠の心を生ぜざれ」ともあり
ます。人を思う気持ちが盛んなときは、飽きたり怠けたりする心が生まれ
ないというのです。どれほど疲れていても、わが子のために労を惜しまな
い母親の姿が思い起こされますが、それはつまり、「自分を待っていてく
れる人がいる」と思うとき、人は自己中心の思いから離れ、その人の役に
立ちたいという願いが湧いてきて、精進の一つ一つが喜びや楽しみに変わ
るということでしょう。
日本だけでなく、世界がさまざまな困難に見舞われています。「慈心を
もって法を説け」とありましたが、みなさんのまわりには、あなたを待っ
ている人はいませんか。
と、締めくくられた。
コロナ終息に向け、世界全体が一つになって努力しています。まさしく
「コロナ菩薩」のおかげさまで世界がその一つの目的に向かって協力する
ことが素晴らしいことと思います。
今月も会長先生より、「安楽行品」を通して「心の中から湧いてくるさ
まざまな誘惑や迷いをふり払い、安らかな心で、自ら楽って、喜びのうち
に精進できるように」との釈尊の思いをしっかりと受けとめ、私たちを待
っていてくださる信者さんにお伝えさせていただくことをご指導ください
ました。
今、おかれた場所(道場)で、自分にできる菩薩行をそれぞれ工夫して、
今月もしっかりと精進させていただきましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『悠々として、心安らかに』というテーマを、
○ 妙好人・石見の善太郎 ○ 楽しく仏道を歩む
の2段落でご解説いただいた。
まず、『妙好人・石見の善太郎』の段落では、
現在の島根県浜田市に、近重善太郎[ちかしげぜんたろう]という妙好人[みょうこうにん]がいました。江戸時代の、終わり近くのことです。
妙好人というのは、白蓮華[びゃくれんげ]にたとえられるほど清らかな人柄の、信心深い念仏者のことです。若いころは素行が悪く、村人から「毛虫の悪太郎」と呼ばれていたその人が、やがて阿弥陀さまの信仰に目ざめ、多くの人から「石見[いわみ]の善太郎さん」と敬愛されるようになったのです。
ある日、その善太郎を信仰仲間が訪ねてきました。本山参りの際に一泊させてくれた同朋で、善太郎は笑顔で迎えますが、その人はいきなり善太郎をどろぼう呼ばわりして、激しく罵ります。着物を盗んで持ち去ったというのです。
すると善太郎は、身に覚えがないにもかかわらず、「それは悪うございました」と丁重に詫びて、着物の代金を渡したうえ、「何もありませんが、せめて草餅をおうちの人に」と、仏壇に供えた草餅を包んで土産に持たせました。
信仰仲間が家に帰って、みんなで草餅を食べようとした時です。その家で働く娘が、なぜかうつむいたまま、手にもとりません。「どうして食べないのか」。主人がそう尋ねると、娘は「善太郎さんが盗ったと話しましたが、あの着物を盗んだのは私です」と、罪を打ち明けたのです。
さて、もしもみなさんが善太郎さんと同じ立場におかれたら、この事態をどのように受けとめ、対処するでしょうか。
『楽しく仏道を歩む』の段落では
この話のように、やみくもに人を非難したり、人の話も聞かずに自己主張したりする人には、できれば会いたくありません。まして、どろぼう扱いされたりすれば、冷静に受けとめられないのがふつうです。
その意味でも、善太郎さんの対応には感心するばかりですが、では、どうして何も釈明しないまま、善太郎さんは事態を受け入れることができたのでしょう。
私は、「阿弥陀さまにすべてをおまかせしている」という、善太郎さんの絶対的な「信」によるものではないかと思います。「やましいことは何もない。仏さまはすべてご照覧[しょうらん]なのだ」。そうした、悠々[ゆうゆう]として安らかな気持ちがあればこそ、あのように受けとめることができたのでしょう。
「いう人もいわれる我ももろともに 同じ蓮[はちす]の台[うてな]なるらん」という道歌がありますが、仏の前ではすべての人が平等ですから、その場で身の正しさを申し立て、相手をやりこめるのはつまらないこと、と考えたのかもしれません。
法華経の「勧持品[かんじほん]」に「我身命[われしんみょう]を愛せず 但無上道[ただむじょうどう]を惜しむ」という言葉があります。信仰者の強い意志を示す一節ですが、この言葉は、命さえ惜しくないという意味だけではないと思います。いま、この地球に生まれて生きている奇跡に気がつけば、「自分さえよければいい」と自己に執着している場合ではない、生かし生かされあう縁[えにし]に感謝することが大事なのだ、という意味にも受けとれます。
「但無上道を惜む」は、そのような感謝に目ざめたら、一人でも多くの人と感謝の気持ちを共有しよう、ということではないでしょうか。法華経の教えによって感謝に目ざめた私たちであれば、その教えを人に伝え、生きる喜びと感謝をともどもに味わおうと、一歩を踏み出すことです。
ただ、それは相手を変えようとか、説き伏せようとするものではないと思います。喜びをもって仏の教えを実践し、人びとと心楽しくふれあうなかで、いま命あることの有り難さに目ざめてくれる人がいれば、それでいいのです。
先の善太郎さんの話は、「草餅説法」といいます。娘さんの心を解かした妙好人のあたたかさに、悠々として、心安らかに生きる信仰者の神髄を見る思いがします。
と、締めくくられた。
今、世界中が「コロナ」の終息に向かって、取り組んでいます。それぞれの立場の方々が一所懸命努力しておられます。
特に医療従事者の皆さんの努力こそ「我身命を愛せず」との菩薩の姿に思え、合掌せずにはおられません。仏さまの教えによって救われた我々は、その感謝を、今こそ三宝帰依の精神に込めて、仏さまへの絶対なる「信」を深めるべく、悠々と「即是道場」の会長先生のご指導を実践してまいりましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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※ 4月16日に、安倍総理大臣が全都道府県に対し緊急事態を宣言し、
外出自粛を始めとする緊急事態措置の要請を行いました。
※ これを受けまして、姫路教会及び但馬道場を6月15日(月)まで
完全閉鎖体制に移行致します。
※ 新聞・機関誌等の発送については、6月末まで発送を中止致します。
※ 但し、事態に進展が見られなければ再延長する場合もあります。
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感じたことを書かせていただきます。
今月は、『偏った見方を越える』というテーマを、
○ 「自分は正しい」という偏[かたよ]り、○ 仏性をひたすらに信じる
の2段落でご解説いただいた。
まず、『「自分は正しい」という偏り』の段落では、
ふつう私たちは、自分の考えや行動が間違っているとは思いません。人から「それは一方的な見方ですよ」と指摘されても、自分が、先入観や色眼鏡でものごとを見ているとは考えないものです。
それでも、たとえば自分にいつもやさしくしてくれる人の言葉は素直に信じられても、批判的な人の声は端[はな]から否定するのではないでしょうか。自分の感情や都合を大事にするそういう見方や受けとり方を、私たちは多かれ少なかれしていると思います。これはいうまでもなく自己中心の狭い見方です。この見方が高ずると「私の考えが正しい」「自分の判断は間違っていない」といったとらわれや偏見が強くなって、ものごとを正しく見る目がさらに曇ります。
そこで、そういうものの見方を省みるとともに、自己中心に偏りがちな視野を大きく広げる動機づけともなる、法華経の一節をご紹介しましょう。
「等正覚[とうしょうがく]を成じて広く衆生を度[ど]すること、皆提婆達多[みなだいばだった]が善知識[ぜんちしき]に因[よ]るが故[ゆえ]なり」(私が仏の悟りを得て人びとを救えるのは、すべて提婆達多という善[よ]き友のおかげです)
「提婆達多品[だいばだったほん]」の有名な言葉です。自分を敵視して殺そうとまでした提婆達多のことを、釈尊が感謝の思いをこめてサンガに伝える重要なくだりですが、これは私たちが、偏った見方から大きな見方へと心を切り替える、スイッチのような役割をもつ一節でもあると、私は受けとめています。
『仏性をひたすらに信じる』の段落では
明けの明星の輝きを受けて、釈尊は悟りを得たといわれます。そのとき釈尊のみ心は、おそらく明星輝く中天[ちゅうてん]にまでのぼり、宇宙と一体となって、大いなる真理をつかまれたのです。
それは、宇宙的視座でものごとを見たということかもしれませんし、明星の輝きが自他の仏性の輝きと重なったということかもしれません。いずれにしても、そのとき釈尊の目には、何もかもが美しく光り輝く仏性そのものという、この世の実相[じっそう]がありありと映ったのではないでしょうか。
そして釈尊は、提婆達多からの非難や攻撃という厳しい現実に直面する中でもまた、心を天にのぼらせて、広く大きな心で提婆達多と向きあったのだと思います。
すると、その瞬間に「自分を害する悪い人」と見る自己中心の心が、スッと仏性を信ずる大きな心へと切り替わり、すべてに合掌・礼拝[がっしょう・らいはい]せずにはいられなかった ―― そういう心の切り替えをうながしてくれた提婆達多は、釈尊にとって「善知識」以外の何ものでもなかったといえるでしょう。
「みんな仏性」という見方に立てば、偏った見方で人を傷つけたり、争ったりすることはありません。人を批判する前に、「そうか、あの人も仏性なのだ」と思い返すきっかけがあれば、偏った見方をして悩むこともないのです。
ただ、誤解されやすいのですが、仏性を信じるというのは、相手のいいところを見ることではありません。相手をまるごと仏性として拝むことです。すべての仏性をひたすらに信じるなかで、私たちは矛盾や葛藤とも向きあい、人として成長していくのだと思います。毎田周一[まいだしゅういち]師は、「信ずる」ことについて「世には自分が相手を疑っていて/相手が自分を信じないと/小言を言っている人がある」「自分が人を信ずることによって/相手を信じさせること ―― /これを信の大道という」といっています。
よけいな先入観などをもっていなかった幼いころには戻れませんが、せめて花まつりの日に、釈尊降誕[ごうたん]のお姿を彷彿とさせる誕生仏に接して、純真無垢な心をとり戻し、自他の仏性を深くかみしめることは大切でありましょう。
と、締めくくられた。
今月は釈尊降誕月です。お生まれいただいたおかげさまで、諸法実相の真理をお悟りいただき、人としての実相は仏性であることをお示しいただきました。
提婆達多品では「悪人成仏、女人成仏」が説かれています、すべての人間が等しく仏性をそなえ、その自覚に立てば、みんな救われることをお示しくださいました。
まずは自分の仏性をしっかり自覚し、そして、触れ合う人のいいところだけでなく、すべてを仏性として信じ、拝んでいく、常不軽菩薩[じょうふきょうぼさつ]の姿勢で布教伝道に取り組みましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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教会における行事予定を、5/15(金)まで一部変更いたします。
但し、事態に進展が見られなければ再延長する場合もあります。
※【一般参拝なし】: 感染拡大を避けるため、参拝をご遠慮ください。
4月 1日(水) 9:00〜 姫路教会発足56周年記念読経供養
【一般参拝なし】
4月 4日(土) 9:00〜 開祖さまご命日 【一般参拝なし】
進級入学おめでとう会 【中止】
4月 5日(日) 9:00〜 降誕会・花まつりキャンペーン【中止】
4月 8日(水) 9:00〜 降誕会の読経供養と啓白文奏上
【一般参拝なし】
4月10日(金) 9:00〜 脇祖さまご命日 【一般参拝なし】
4月15日(水) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
【一般参拝なし】
4月29日(水) 9:00〜 緑の美化キャンペーン
【佼成会より参加なし】
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感じたことを書かせていただきます。
今月は、『満足できる幸せ』というテーマを、
○ 「欲をはなれると」 ○ 「感謝こそ」 の2段落でご解説いただいた。
まず、「欲をはなれると」の段落では、
「よく深き人の心と降る雪は 積もるにつけて道を忘るる」この道歌
[どうか]のとおり、欲の皮が張っていると、人は、人として歩むべき道を
いつしか見失ってしまいます。
今月、創立八十二周年を迎える本会を、開祖さまとともに開いた脇祖さ
まは、逆に、常々「欲をはなれると徳がくる」と話していたそうです。
欲は自然のものですから、生きるうえでは必要なのです。ただ、必要
以上に欲が深い人は、「あれがほしい」「これも自分の思うとおりにし
たい」と私利私欲にとらわれるあまり、人への思いやりが二の次になり
がちです。心が、「我」=「自分のこと」でいっぱいの状態だからです。
ところが、何ごとにつけ、ほどほどのところで満足できる人は、人の
ことを考えるゆとりもありますから、たとえば好物が手に入っても「一人
で食べてはもったいない。人にも分けてあげよう」という気持ちが自然に
湧いてきます。そもそも、ほどほどをわきまえている人にとって、必要以
上のものは欲しないといえましょう。
そうした人間らしい思慮[しりょ]や、他を思いやる気持ちが行動となって
あらわれることを、脇祖さまは「欲をはなれると徳が来る」といったのだ
と思います。
「感謝こそ」の段落では
法華経の「見宝塔品[けんほうとうほん]」に、法華経の教えを学び、実践する
人は、ほんとうの意味で精進する人であって、「是れを戒[かい]を持[たも]ち
頭陀[ずだ]を行ずる者と名[なづ]く」とあります。
辞書によれば「煩悩[ぼんのう]を振るい落とし、払い除く」のが「頭陀」の
意味で、一日一食を守るとか、ボロ布で作った衣を着るなど、そのための
精進が「頭陀行」です。
頭陀行といえば、「頭陀第一」と呼ばれた摩訶迦葉[まかかしょう]が思い浮か
びます。摩訶迦葉は「衣や食や寝床などに、いっさい文句をいわず、満足
する者である」と伝えられています。
現代の私たちには、実践するのが難しいように思えますが、「何ごとに
対しても、不足を口にしないで満足する」というのは、授かったものに感
謝して、自分勝手な「よしあし」をいい立てないということです。それに
頭陀行をごく簡単に「少欲知足[しょうよくちそく]」と説明する文献もあります
から、欲を少なくして足ることを知る生き方、与えられたものをできる限
り素直に受け容れて、感謝のうちに暮らすことは、私たちが日ごろから心
がける姿勢と重なるものです。
また、自分自身の容姿などについて、それがなんであれ「よしあし」を
いうのは、「自分の命に対する不殺生戒[ふせっしょうかい]をおかすことになる」
と学んだことがあります。その意味では、何ごとにも「よしあし」をい
わない生き方は、先に述べた経文の「戒を持ち」ということにも一致しま
す。しかも、それができるのは、法華経を学ぶことで感謝に目ざめるから
だと受けとめられます。だとすると、法華経をとおして仏の教えを学ぶ私
たちは、いつでも「満足できる幸せ」のただなかにいるといってもいいの
かもしれません。
しかし、そのように理解していても、ものごとを感謝で受けとれないと
きがあります。そうしたときには、合掌[がっしょう]・礼拝[らいはい]などの「形」
から入ることも大切です。
生きていくなかで、授かったすべてに合掌する ―― そこに感謝と喜びが
あり、ほんとうの満足と幸せがあるのです。
と、締めくくられた。
今月は創立記念月です。開祖さまが「現実に人を救い、世を立て直そう」
という熱意で82年前に創立いただき、脇祖さまは、救われていくための
実践を、「欲をはなれると徳がくる」と菩薩行の意味を分かりやすくお示
しいただいていました。「欲をはなれる」行の在り方は「頭陀行」。頭陀
行を簡単に言うと「少欲知足」、すなわち、欲を少なくして足ることを知
る生き方、与えられたものをできる限り素直に受け容れて、感謝のうちに
暮らすこと、ともご指導いただきました。
「見宝塔品」の後半には、「令法久住(りょうぼうくじゅう)」の仏勅が
あり、末世にこの教えを説くことを願われた、その本仏の願い、開祖さま
の願いに応えるべく法師の自覚に立って、布教伝道することをお誓いした
いと思います。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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教会における行事予定を一部変更いたします。
※【一般参拝なし】: 感染拡大を避けるため、参拝をご遠慮ください。
3月 1日(日) 9:00〜 朔日参り(布薩の日)【一般参拝なし】
3月 4日(水) 9:00〜 開祖さまご命日 【一般参拝なし】
3月 5日(木) 9:00〜 教団創立82周年記念日【一般参拝なし】
3月10日(火) 9:00〜 脇祖さまご命日 【一般参拝なし】
3月15日(日) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
【一般参拝なし】
3月17日〜23日 春季彼岸会
【最少人数でご供養のみ】
3月28日(土) 感謝のお礼参り 【中止】
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今月は、『生きがいをみつけよう』というテーマを、
◎ 「お前も、死ぬぞ」 ◎ 生きる意味とは の2段落でご解説いただいた。
まず、『「お前も、死ぬぞ」』の段落では、
二月は、涅槃会[ねはんえ]の月です。涅槃会は、釈尊ご入滅の日とされる2月15日に、仏教徒がそのお徳をたたえ、仏の教えの学びを深める日ですが、では、ご自身の「死」をとおして、釈尊は私たちに何を伝えられたのでしょうか。
私は、「生きとし生けるものは、みな、いつか必ず死を迎える」という実相[じっそう]を示されたのだと受けとめています。
仏教では「生死一如[しょうじいちにょ]」といいますが、生きることと死ぬことは、一セットです。生があり、死があってこそ「命」なのです。ところが、私たちはその一方の「死」を、なかなか受け容れられません。多くの人にとって「死」は、恐ろしくて、避けてとおりたいものといえるでしょう。しかし、だからこそ釈尊は、「お前も、死ぬぞ」と、この世の実相を、身をもって語りかけてくださったと思うのです。
ただ釈尊は、もちろんご自身の死をとおして、そのことだけを教えているわけではないと思います。生まれては死に、死んでは生まれ、という「いのち」の大きな流れのなかで、私たちが人としてこの世に生まれ、生きる意味をも教えているといえないでしょうか。つまり、ただ死ぬためだけに生まれてきた人は、一人もいないということです。
法華経の法師品[ほっしほん]に「衆生を愍むが故に此の人間に生ずるなり」とあります。この経文に照らせば、悩みや苦しみの絶えない私たち人間を見かねて、釈尊がこの世にお出ましになったと受けとめることができます。そして、それは釈尊だけではないはずです。そのことをふまえて、つぎに私たちの生きる意味について考えてみましょう。
『生きる意味とは』の段落では、
法師品には、苦しみの多いこの世に、私たちは願って人間として生まれてきたというのです。見方を変えると、苦難もあれば喜びもある娑婆[しゃば]世界だからこそ、そして、私たちが真理や実相をつかむことのできる人間であればこそ、いまここに生きているということになります。
身近な人や家族、あるいは自分が、病気をしたり、亡くなったりするのは、ほんとうにつらく、悲しいことです。ただ、そのつらさや悲しみやおそれを心底味わうと、真実を見る目が開かれます。それは、苦しみ、悲しみ、つらさそのものが、救いのいとぐちになるということです。
そして、ここでいう「救い」というのは、たとえ人生のどん底であえいでいるときでも、そこに生きる意味や生きがいを見出し、前向きの力に変えていくことです。
救いとか生きがいといっても、おおげさに考えることはありません。ささやかでも、あなたにしかできないことを喜びとして、それがまわりの人に喜ばれる、といったことです。それが、生きる意味や生きがいの核心ではないでしょうか。
私たちは、運命という自分ではどうにもならないことを、一つ一つ受け容れながら、そのつど前向きな価値を見つけて生きていくことが大切なのです。
それは、悟りとも気づきともいえるものですが、その繰り返しが人生なのでしょう。良寛は「世の中に何が苦しと人問[と]はば 御法[みのり]を知らぬ人と答えよ」と詠んでいますが、仏の教えをいただく私たちは、いつ、どのようなときも、生きがいをもって生きる法をすでに頂戴しているのです。
と、締めくくられた。
「佼成新聞」(1/5付)、「御親教」のお書初めで、「尋常」(つね日ごろをたずねる)。私たちは、何のために信仰をしているのか、つねに足元をふり返ることが大切と、会長先生からお示し頂きました。また、信行方針の「即是道場[そくぜどうじょう]」にもふれられ、その精神は、困難に出遭ったときには「人間として成長するきっかけを頂いた」「ここが踏ん張りどころだ」という受け取り方をし、身を置く所すべてが道場と思い、目の前のことに最善を尽くすこととご指導頂きました。
今月は、節分を迎えます。いよいよ七赤金星の年になりました。あらためて、お互いの今年の精進目標を設定する参考に法師品の「願生此間」この世に生まれてきた意味の自覚と、「五種法師[ごしゅほっし]」の実践を確認させて頂き、今月といわず、今年一年、一所懸命精進させて頂きましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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2月 2日(日) 9:00〜 節分会
2月 4日(火) 9:00〜 開祖さまご命日
2月10日(月) 9:00〜 脇祖さまご命日
2月14日〜15日 本部(涅槃会)団参
2月15日(土) 9:00〜 涅槃会(布薩の日)
〔吉田教会長:お説法〕
2月28日(金) 感謝のお礼参り
2月29日(土) 15:00〜 新宗連兵庫県協議会学習会
2月29日〜3月1日 本部団参
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感じたことを書かせていただきます。
今月は、『ほんとうの自分に帰る』というテーマを、◎ 一年をどうすご
すか ◎ 素直に、謙虚に の2段落でご解説いただいた。
まず、『一年をどうすごすか』の段落では、
「かたちなき時間といへど一年が ゆたけきままにわが前にあり」(佐藤
佐太郎)という歌があります。新たな年を迎えた私たちの前には、まさに
豊かで、まっさらな「時」が広がっています。
そして、この一年を真に豊かなものにするのは、ほかでもない、私たち
自身です。日々に出会う人やものごとは、すべて、自分が因となり、縁と
なって生じているものです。さらにいえば、遠い世界のできごとでさえ
も、自分と無縁のことは一つもないと受けとめれば、どのような一年にす
るかは、すべて自分にかかっているといえるのです。
それはまた、一年をかけて自分をどのように成長、進化させていくかと
いうことでもあるでしょう。
さて、法華経の「授学無学人記品[じゅがくむがくにんきほん]」は、釈尊が一子・
羅睺羅[らごら]や、侍者としてつねに付き随う阿難[あなん]に対して授記を与え
る章です。羅睺羅の授記[じゅき]に際して、釈尊は「羅睺羅の密行[みつぎょう]は
唯我のみ能くこれを知れり」と称えています。増谷文雄先生は、羅睺羅
について、舎利弗[しゃりほつ]のような智慧[ちえ]に恵まれているわけでもなく、
富楼那[ふるな]のように雄弁でもなかったけれど、「彼を見守る人々の苦心
と、彼じしんの必死の努力によって、密行すなわち教団のさだめを守るこ
とにおいては、もっとも綿密な修行者」にまで成長したと述べています。
舎利弗や富楼那のような智慧や才能の持ち主を尊敬する一方で、特別な
才に恵まれていなかった羅睺羅に対して、共感を覚えるのは私だけではな
いと思います。そして、私たちが自身の成長や進化を考えるうえで、羅睺
羅の努力とはどのようなものであったのかも気になるところです。
『素直に、謙虚に』の段落では
「密行第一」が羅睺羅に対する尊称です。しかし、そう称えられたの
は、舎利弗をはじめとする先輩たちの指導や助言を素直に聞き、謙虚に
なって、人が見ていないときでもひたすら教えを学び実践しつづけたから
だと、私は思います。釈尊の長男として生まれ、世俗にあったときには、
父である釈尊に「王宮の財産を私にください」と語った羅睺羅が、出家し
て法を継ぐことが人生の大事だとわかった時から、身を慎み、常に「素直
であろう」「謙虚であろう」と心して、ただただ静かに精進を重ねる姿
が、「密行」、つまり羅睺羅の努力だったと思うのです。
そこには、財を貪る心も、自分の境遇を恨む思いも、釈尊の肉親である
ことを驕る気持ちもありません。「密行」を重ねるなかで、羅睺羅は全て
の人が生まれながらに授かっている仏性の有り難さにめざめ、貪・瞋・痴
などの煩悩を離れた、「ほんとうの自分」に帰ったということです。
そしてだれもが、その真実の自分に帰ることができます。お互いさま、
素直さと謙虚さを忘れず、一日一生のつもりで、精いっぱい明るく和やか
な一年にしてまいりましょう。
と、締めくくられた。
「法華経」は「仏性の自覚と菩薩行の実践」が説かれていると教えていた
だいています。
会長先生は、昨年から「佼成」のご法話で、法華三部経一品一品を丁寧
にご解説頂き、釈尊の目の前の人一人ひとりをいかに救うかという思いを
具体的に教えていただきました。
今年の初めに「開三顕一」の最後、「授学無学人記品」によって、仏性の自覚に立った立場で、いよいよ、法師としての実践を誓願するために、羅睺羅の「密行」をお示しいただいたと受けとめます。『素直に、謙虚に』の段落の内容をしっかりとかみしめ、今年も、「惜しみなくつながろう〜菩薩を育てる苗代となろう〜」のマザープログラムを実践し、教団100周年・教会60周年に向け、教会一丸となって布教伝道に取り組みましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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令和2年1月1日 6:30〜 元旦参り
朔日参り(布薩の日)
1月 2日(木)〜6日(月) 自由参拝
1月 4日(土) 9:00〜 開祖さまご命日
1月 7日(火) 8:45〜 御親教
1月10日(金) 9:00〜 脇祖さまご命日
1月15日(水) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
1月19日(日)〜25日(土) 寒中読誦修行(AM 6:30〜)
1月19日(日)11:00〜13:00 成人式
1月28日(火) 感謝のお礼参り
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ことを書かせていただきます。
今月は、『弁を尽くす』というテーマを、◎ 言葉の力 ◎ 富楼那[ふるな]
に学ぶの2段落でご解説いただいた。
まず、『言葉の力』の段落では、
人間が生まれもって授かった心、すなわち「人」としての素朴な感情や
意思を、言葉を使ってまわりの人に伝え、コミュニケーションを繰り返す
なかで「人間らしい心」が育ってきた。
言葉の力はそれくらい大きいわけですが、その一方で、詩人の寺山修司氏
は「現代人が失いかけているのは『話しあい』などではなくて、むしろ
『黙りあい』だ」と指摘しています。言葉の発達に心の成長が追いつかな
いのか、あるいは心が退化しているのか、言葉が人を傷つける道具として
使われることも多いのです。言葉の力が大きいだけに、多くを語ることよ
りも、いまは沈黙のうちに自らを省みることのほうが重要なのかもしれま
せん。
では、人とよりよい関係を築くために、私たちは何をどのように話し、
伝えることが大切なのでしょうか。
『富楼那に学ぶ』の段落では
法華経の「五百弟子授記品[ごひゃくでしじゅきほん]」に、説法第一といわれた富
楼那に対して、釈尊が「能[よ]く其の言論[ごんろん]の弁を尽くすものなけん」
(富楼那ほど言葉の力を最大限に駆使し、発揮できるものはない)と称え
る一節があります。「この人に幸せになってもらいたい」という一心で教
えを伝えた富楼那の言葉は、よほど強く人びとの心に響いたのでしょう。
「言論の弁を尽くす」というのは、知識や才能にすぐれた人が、立て板に
水のごとく話すことではないのでしょう。
それよりも大事なのは、相手の顔が自然とほころぶような柔和な態度
で、思いやりをもって言葉を交わすことです。そうすれば、おのずから話
しかける言葉もやさしくなって受け入れやすいものとなり、それが相手の
心に届くということではないでしょうか。相手を思う気持ちがあれば、目
の前の人の心情はもちろん、生活環境などにも配慮してふれあうでしょう
から、その時に伝える言葉は、富楼那に負けないくらいの力を発揮するの
だと思います。
ただ、私たちにとってハードルが高いと感じるのが、「大切なことをだれ
にもわかるように」伝えるという部分です。
作家の井上ひさし氏は、言葉の使い方について「むずかしいことをやさ
しく、やさしいことをふかく」と述べていますが、釈尊の時代から現代に
至るまで、人にものごとを伝える基本はあまり変わらないのかもしれませ
ん。
そこで、これも作文の書き方に関する井上氏の言葉ですが、「単純に、
わかりやすく」「自分にしか書けないことを、自分の文章で」という二つ
が参考になります。
私たちは、自身の体験であれば自分の言葉で語ることができます。味わ
った感動や気づきならば、素直に話せます。
完璧な人はいませんから、教えの何たるかがよくわからなくても、わか
らないまま、「ありがたい」「うれしい」という気持ちとともに、自分の
理解に応じて話すことが、「大切なことをだれにでもわかるように」伝え
ることなのです。
今年、あなたはどのような感動を味わったでしょうか。そして、どんな
「大切なこと」を人にお伝えしますか。
と、締めくくられた。
五百弟子授記品には、「化城諭品[けじょうゆほん]第七」までの説法によって
高い境地に導かれたことを見通された釈尊が十大弟子のひとり富楼那を
はじめ、たくさんの弟子たちが成仏の保証を与えられたことが述べられ
ています。富楼那は説法第一と言われ、弁舌に優れた人でした。しかも
自分の偉さを見せびらかすことがなく、凡俗[ぼんぞく]と同じような生活を
していましたし、またおとなしそうに見えても、心の中には本当の意味
の勇気をもっている、まことに偉い人でした。
富楼那の半歩主義と言われている。
11月号では、まず自分がどのような人間になりたいかという「心願」が
大事、多くを語るより、当たり前のことをなおざりにせず、日々をてい
ねいに生きることを説かれましたが、「この人に幸せになってもらいた
い」という相手を思う気持ちがあれば、その言葉は強く人々の心に響く
でしょう。やはり、言葉かけも大切ということを学びました。一年の締
めくくりの月、悔いなくしっかり精進させて頂きましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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12月2日(月)〜12月19日(木) ※各支部・各部単位で教会大掃除
12月 4日(水) 9:00〜 開祖さまご命日
12月 8日(日) 9:00〜 成道会
9:30〜 冬季・お城掃除
12月10日(火) 9:00〜 脇祖さまご命日
12月15日(日) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
10:00〜 総括・誓願
12月21日(土) お身拭い
12月25日(水) 法座納め
12月26日(木)〜12月31日(火) (自由参拝)
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ことを書かせていただきます。
今月は、『「励まし」と「精進」』というテーマを、
○ 仏からの励まし ○ ていねいに生きる の
2段落でご解説いただいた。
まず、『仏からの励まし』の段落では、
信仰の世界では、よく神仏に「救われる」といういい方をします。仏教
でいえば、仏が私たちを救ってくださるということですが、それは、単に
「救い」を待っていればいい、という意味ではなさそうです。
仏の教えに結縁[けちえん]した私たちは、すでに、そしてつねに、教えをと
おして仏から「励まし」を受けているわけですから、苦悩の世界から出て
いくみずからの実践が大事であると、いまさらながら痛感させられます。
「化城諭品[けじょうゆほん]」の一節が説かれた偈[げ](詩)の結びの一文、
「普回向[ふえこう]」で知られる次の経文「願わくは此の功徳を以て/普[あまね]
く一切に及ぼし/我等と衆生と/皆共に仏道を成ぜん」
この一節は、「仏を供養する功徳を、多くの人びとに回向し(差し向け)
て、みなともに仏の境地に達したい」と願う言葉で、少し難しい印象です
が、私たちの生活にそって読み直すと、意外なほど身近な精進が浮かびあ
がります。
「家族や友だちをはじめ、ふれあう人には、いつもやさしくしよう。朝夕
のご供養をとおして、自分の心と行ないを見つめよう。そうして多くの人
の善き縁となり、善き友となって、ともどもにほんとうの幸せを味わおう」
仏からの励ましを受けて実践する「みずからの努力」とは何かを考える
とき、私はこの経文のような、大きな願いにもとづく身近な精進が、真っ
先に思い浮かぶのです。
『ていねいに生きる』の段落では
「善き友」といえば、「善き友、善き仲間といることは、仏道の半ばにあ
たるのでしょうか」と問う弟子に対して、釈尊が「それこそが、仏道のす
べてですよ」と説かれた話が有名です。そして釈尊は、後日この話を前置
きとして、コーサラ国のパセーナディ王に大事な助言をしています。
「王さま、あなたは人々の善き友、善き仲間として、率先して善きことに
つとめ励むことです。すると、あなたがつとめ励む姿を見たり聞いたりし
た人はみな、王さまからどんな叱咤激励[しったげきれい]を受けるよりも強く、
『私も怠[おこた]らずに、つとめ励もう』と思うはずです」と説き示されたの
です。
これは私たちへの助言でもあります。親が子の幸せを願って激励すると
き、まず自分がどのような人間になりたいかという「心願[しんがん]」が大事
と言われますが、そのことにも通じる説話です。ただ「善きことにつとめ
励む」とは何かといえば、それは暮らしのなかにある当たり前のことをな
おざりにせず、日々をていねいに生きることでしょう。
だれにとっても、いまいるそこが仏道実践の「道場」ですから、いつで
も当たり前のことを一つ一つ感謝して行ない、まわりの人と一緒に心を磨
いて幸せを味わう。それが「精進」であり、「皆共に仏道を成ぜん」とい
うことです。
ところが、私たちはときとして怠け心が起こり、当たり前のことさえで
きないことがあります。そのとき、私たちを支えるのが志[こころざし]や願いで
す。「あの人のようになりたい」と理想の人をめざしつつ、焦らずに、ま
た歩き出せばいいのです。すべての人にほんとうの幸せをと願う仏を理想
とし、人びとの「善き友」でありたいと願って――。
と、締めくくられた。
化城諭品では、私たちと仏さまの過去世からの因縁が説かれ、「仏は過去
の世から無数の人を導いて来たが、その教化を受けた人たちというのは、
実はいまここでわたしの教えを聞いているあなたがたにほかならないので
す。また、わたしが死んだのちの未来世において弟子となる人も無数にあ
る」と、経文に説かれています。
仏弟子として、今世、この教えに導かれ、いま開祖さま、会長先生の弟子
にしていただけたことに感謝し、自分も仏さまのようになりたいという願
いをもって、会長先生からお示しいただいた「知足」、今が最も救われて
いることの自覚を深め、どのような状況にあっても、すべては仏さまのお
慈悲であり、救いであるという、見方を身につけられるよう、良き仲間と
支え合いながら、努力精進させていただくことをお誓い申し上げます。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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19:00〜21:00 夜間朔日参り(当番:姫路北)
11月 3日(日)〜4(月) (ご命日団参)
11月 4日(月) 9:00〜 開祖さまご命日
11月 9日(土) 10:30〜 七五三詣り
11月10日(日) 9:00〜 脇祖さまご命日
11月15日(金) 9:00〜 開祖さま生誕会
釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
19:00〜 夜間開祖さま生誕会
11月24日(日) 10:00〜 仏教研究会
11月28日(木) 感謝のお礼参り
]]>ことを書かせていただきます。
今月は、『「仏」を供養する』というテーマを、
◎ なぜ「仏」がたくさんいるのか ◎ 「供養」の基本は思いやり の
2段落でご解説いただいた。
まず、『なぜ「仏」がたくさんいるのか』の段落では、
法華経の「授記品[じゅきほん]」には、釈尊の弟子たちが「あなたも仏になれますよ」と、仏になれる保証を授かる「授記」のくだりが繰り返し出てきます。その中で釈尊は、弟子それぞれに、仏を供養し、尊重することの大切さを、その内容とあわせてくわしく説いています。
それにしても、私たちからすると、「三百万憶」や「八千億」といった、計り知れない数の「仏を供養する」と聞いただけで別世界の物語に思えます。「未来世」「当来世」とありますから、生まれ変わり死に変わりを繰り返しながらということでしょうし、自分に実践できるとはとても思えません。
ただ、人間・釈尊が、悟りに至るまでに出会った人や、教えを受けた人、さらには、真理を伝える旅でふれあった人びと、そうした人たちすべてを「仏」と受けとめる見方に立って読むと、先の経文も違って見えてきます。同時に、日々に出会う一人ひとりを、釈尊に倣[なら]って「仏」と受けとめるとき、この経典の一節が、私たちの日常生活における実践課題として身に迫ってくるのではないでしょうか。
『「供養」の基本は思いやり』の段落では
目の前の人を「仏」とみるということでいえば、臨済宗を開いた臨済義玄禅師[りんざいぎげんぜんじ]が、次のような言葉を残しています。「もし君たちが、仏を外に向かって追い求める心を離れたなら、そのまま仏である。いま、私の目の前でこの説法を聴いている君たちが仏にほかならない」
修行仲間に向けられた言葉ですが、自分は本来、清浄[しょうじょう]な心をもつ仏なのだと自覚すれば、自分も仏、目の前にいる相手も仏ということで、それは「出会う人はみな、すべて仏」と信じ、受けとめることにほかなりません。
人は、死んだ人に手を合わせることはできても、生きている人にはなかなか手を合わせることができないといわれますが、亡くなった人も生きている人も同じ「仏」であれば、目の前の人に「恭敬[くぎょう]・尊重[そんじゅう]・讃歎[さんだん]」の気持ちを示す「供養」を行なうのも、不思議な話ではないどころか、むしろ当たり前のことです。
では、具体的に何をするのか ―― 仏に感謝のまことを捧[ささ]げる「供養」の中でいちばん大切なのは、教えを実践することだといわれます。実践をとおして、教えが真実であることを体得する。釈尊のように慈悲[じひ]の心で日々をおくる。やさしく言えば「人の悩み苦しみが少なくなるように、楽しみが多くなるように」と願って、人を思いやることです。
それが、目の前にいる「仏」に対する供養であり、ひいては、修行・精進を重ねて得た真実を説いてくださった釈尊、つまり「仏さま」への感謝と尊崇[そんすう]の気持ちを込めた供養となるのです。こうして私たちは、思いやりがあふれる人間になるにつれて、「仏」に近づくでしょう。
私たち一人ひとりを一枚の布にたとえれば、みんな「仏」になる資質をもったすばらしい「布」です。そこに慈悲 ―― 思いやり ―― の実践という裏地が施されると、「仏」という最高の「衣」になるということかもしれません。
と、締めくくられた。
開三顕一の法門は、仏性の自覚を確立することを促しています。
そして、それは自らの救われだけではなく、多くの人が救われるための実践こそ尊く、その実践を通じて成仏に向かって精進する決定を、本仏は願っておられる。そのことに気づき表明したものに授記が与えられます。
しかし、成仏の保証には条件があり、多くの仏を供養した暁にというもので、会長先生は、その多くの「仏」というものは、日々に出会う一人ひとりを、釈尊に倣って「仏」と受けとめるとお示しいただいた。つまり、今、目の前におられる人の仏性をどれだけ拝めるかが、多くの「仏」を供養することであると明快にご指導くださいました。よって、別世界のような物語ではなく、今からすぐに人を思いやる実践に取り組めばよいと思わせて頂きます。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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19:00〜21:00 夜間朔日参り
(当番:姫路西/加古川第一)
10月 4日(金) 8:45〜 開祖さま入寂会[映像配信]
10月10日(木) 9:00〜 脇祖さまご命日
10月 12日(土)〜13(日) 大日町自治会秋祭り
[教会駐車場:お神輿休憩所]
10月13日(日) 9:00〜 日蓮聖人遠忌法要
10月15日(火) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
10月26日(土) 13:30〜 「太平洋戦全国戦災都市空爆死没者
慰霊と平和の祈り」
於:姫路市手柄山中央公園内
10月28日(月) 感謝のお礼参り
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今月は、『「違い」があるからこそ』というテーマを、
○ みんなを愛おしむ心、○ 「違い」がある意味と尊さ の2段落でご解説いただいた。
まず、『みんなを愛おしむ心』の段落では、
紀貫之が、「古今和歌集」に収めた自身の恋歌の一つに、次の歌があります。
「世の中はかくこそありけり吹く風の 目に見えぬ人も恋しかりけり」
これを恋愛の歌として読めば、それはそれで理解できます。ところが、ある方によると、この歌は、私たちがなかなか気づかない一つの「真実」を歌い上げているというのです。その「真実」とは、人はみな心の根底において、この世に存在するすべてのものを愛おしいと感じ、慈しんでいる、ということです。
しかし、現実にはそうとは言えない状況があちこちで見られます。考え方やものの見方の違いが原因で人と言い争ったり、いがみあったり、交流を断ったり、国同士が戦火を交えたり・・・・。残念なことに、宗教間の対立も現実の問題として存在します。多くの人が、他人との違いを受け入れられずに苦しみ、悩み、無益な争いまでしているのです。
そうした中で、私たちが身近でできることは、他者との違いを違いとして認めて受け入れることですが、それにはまず「私の胸の内にも、この世のすべてのものを愛おしいと感じ、慈しむ心がある」と自覚することです。すると、人と自分に違いがあることの尊さも見えてくるはずです。
『「違い」がある意味と尊さ』の段落では
私たちは、一人ひとり異なる因と縁によって生まれてきています。また生まれてからも、一人ひとりがそれぞれ独自の縁にはぐくまれて、「私」という個性があります。
ですから、人種や容姿はもとより、人と考え方やものの見方が違うのは当然で、違いを理由に対立したり、排除したりするのは、自分の個性を否定することと同じです。
宗教の世界においても、人それぞれの縁に随って救われる道が異なるのは自然なことで、キリスト教の教えで救われる人もいれば、イスラム教や仏教の教えで救われる人もいるのです。それは、安らぎを求める人が、信じ仰ぐ教えがたくさんあるということです。この地球に生きるすべての人に安心を与えるため、宗教・宗派のそれぞれが個性を発揮しつつ、お互いに補いあっているともいえます。
宗教をそのように見ると、人を安心に導くという慈愛の一点において、宗教は一つに結ばれていることがわかります。そして、宗教によるその慈愛のはたらきかけによって、私たち自身も、心の底に具わる「他を愛おしみ、慈しむ心」を掘り起こされ、それを実践せずにはいられなくなる――仏教でいえば、それが菩薩の生き方です。
私たちには、ふと自他の違いを感じて、人にやさしくできないときもあります。そういうとき、外に向いた目を自分の心の内側に向けると、違いを受け入れやすくなります。
私は、国際会議の席などで、意見の異なる人に出会ったときに、よく「私にはない考えをもっておられて、すばらしいな」と感じます。そして、その違いをとおして、まだまだ知らないことばかりの自分であると教えられるのです。自分の意見を声高に主張し、違いを盾に角突きあわせるよりも、違いを認め、受け入れて相和[あいわ]し、その和の醸成[じょうせい]をお互いに喜びあえるほうが幸せではないでしょうか。
法華経の「薬草諭品[やくそうゆほん]」に「如来[にょらい]の説法は一相一味[いっそういちみ]なり」とありますが、宗教に共通する目的と、私たち一人ひとりの胸底に宿る心を考えあわせると、この宇宙船地球号の乗組員はみな、安らぎと幸せを得ることを約束されているという意味で、「宇宙の真理は一相一味」ともいえます。私たちには、それを現実の世界で証明するお役があるのです。
と、締めくくられた。
今月は、内容が全文重要と思い全文掲載しました。特に、「薬草諭品」は、平等と差別について説かれている品ですが、「諸法」の差別相と「実相」の平等相の見方を現在の世相に合わせて、どう受け止めるかという受け止め方をご指導いただきました。
おりしも、先月20日〜23日にドイツで第10回WCRPが開催され世界の宗教者のみなさんも「慈しみの実践」というテーマで会議が行われました。たとえ自分と意見が違う人、害をなす人であっても、仏さまは全ての人に安らぎと幸せを与えてくださるというお慈悲をしっかりと信解できるよう精進させて頂きましょう。
そして、会員各家のすべてのご先祖様に成仏いただくべく、「彼岸会」に向かっての手取り修行に取り組みましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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9月 4日(水) 9:00〜 開祖さまご命日
9月10日(火) 9:00〜 脇祖さま報恩会
9月 14日(土)〜15(日) (ご命日団参)
9月15日(日) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
9月22日(日) 秋季彼岸会
9月27日(金) 感謝のお礼参り
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19:00〜21:00 夜間朔日参り(当番:姫路南)
8月 4日(日) 9:00〜 開祖さまご命日
ゆめポッケ発送式
8月10日(土) 9:00〜 脇祖さまご命日
8月11日(日)〜14日(水) (自由参拝)
8月15日(木) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
戦争犠牲者慰霊・平和祈願の日
8月28日(水) 感謝のお礼参り(各支部)
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ことを書かせていただきます。
今月は、『「自由自在」に生きる』というテーマを、
○ ほんとうの「自由」と「自在」、○ 「三界は我が有なり」の気持ち
での2段落でご解説いただいた。
まず、『ほんとうの「自由」と「自在」』の段落では
○私たちは、自分の思うままに行動できることを「自由」といい、それ
が「自在」な生き方だと思っています。そして、多くの人が「自由自
在に生きられたら、どれほど幸せだろう」と考えます。別の見方をす
れば、私たちが日ごろ、いかに不自由や不満を感じているかというこ
とです。
○仏教では欲にとらわれたり、自分の考えにこだわったりする心がすっ
かりなくなることを「遊戯[ゆげ]」といい、そうした何ものにもとらわ
れない心のありようを「自由自在」ととらえています。思い煩[わずら]
いも憂[うれ]いもなく、気持ちがのびのびとして安らかな境地です。
また「自在」には、観世音[かんぜおん]菩薩を観自在[かんじざい]菩薩と呼ぶ
ように、苦しむ人びとの声を聴いて、意のままに救うはたらきや力と
いう意味があります。つまり、人さまを思いやり、人さまとともに向
上をめざす生き方のなかに、ほんとうの「自由」があり「自在」があ
るということです。
『「三界は我が有なり」の気持ちで』の段落では
○法華経の「譬諭品[ひゆほん]」の一節<「経文」(㊂P.98.5〜7).略>に、
不自由に思うことが多く、苦難は避けてとおりたいと願う私たちに、
仏は「智慧[ちえ]の楽」を与えて、本当に自由自在な人生を送らせてあ
げよう、というのです。では、その「智慧の楽」とは、いったいどん
なものでしょうか。
たとえばいま、目の前に、おにぎりが2つあるとします。あなたに与
えられたものです。ところが、まわりにはあなたと同じくらいお腹を
空かせた人が4人もいます。
「諸苦[しょく]の所因[しょいん]は 貪欲[とんよく]これ本[もと]なり」(㊂P.109.
7〜8)と経典にありますが、もらったあなたが一人で食べたいと思う
気持ち(貪[むさぼ]り)も、もらえなかった人たちがそれを恨[うら]んだり妬
[ねた]んだりする感情(怒り)も苦悩の一つです。だからといって、足り
ないぶんのおにぎりを仏にプレゼントしてもらうのが「智慧の楽」で
はないでしょう。そうではなくて、その不足がもたらす苦悩を、自他
の向上につながる楽しみや喜びとして受けとめるようになるのが「智
慧の楽」ということです。
○目の前にある小さな幸せをかみしめたり、喜びを人と分かちあったりす
ることで、苦悩を楽しみに変えていく――それが、本当に「自由自在」
な生き方だと思います。
また「譬諭品」には「今此の三界は 皆是れ我が有なり」(㊂P.107.
8〜10)とあります。私たちはそれぞれに独自の尊い命を生きながら、大
自然の一部としてすべてと調和し、生かされています。それは、宇宙
全体が私と一体であり、我がものだということです。先の一節は、
「このことがわかれば、いつでも智慧と慈悲に満ちた行ないができま
すよ」と私たちを励まし、そうあってほしいと願う仏からのメッセージ
なのです。
そのことをふまえて、一つお尋ねします。みなさんなら、先の二つの
おにぎりをどのようにされるでしょうか。
と、締めくくられた。
お釈迦さまが「方便品[ほうべんぽん]」において、いよいよ悟られた真理
「諸法の実相[じっそう]」を説かれ、仏知見[ぶっちけん]の「開示悟入[かいじご
にゅう]」のためにこの世に出現され、人間の実相は“仏性”であることの
自覚を促されました。そして、仏知見を身につけるための行法は、菩薩
行であるとお示し頂きました。
今月のご法話は、その「方便品」の説法を受けて、「譬諭品」に入って
舎利弗[しゃりほつ]が、自分だけが悟ればそれでいいと思っていた思いを懴悔
[さんげ]し、救われた喜びを共に味わうという、菩薩行の精進を誓い、授記
[じゅき]をいただきました。
凡夫[ぼんぷ]の心から、貪欲を滅するための菩薩行に向かう、本質的な救
われに向かって精進する菩提心を起こすことの大切さを、6月号「やく
しん」のご法話でもご指導をいただきました。
下半期に向けて本質的な救われを目指して、本当に生き甲斐のある人生
を歩んでいけるよう、教えを学び、実践させて頂きましょう。
そして、会長先生のご法話の最後の質問にみなさんはどのようにお答え
になるか、みんなで考えましょう!
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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19:00〜21:00 夜間朔日参り(当番:加西)
7月 4日(木) 9:00〜 開祖さまご命日
7月10日(水) 9:00〜 脇祖さまご命日
7月15日(月) 9:00〜 盂蘭盆会
釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
7月21日(日) 姫路教会・参議院選挙の投票所
7月28日(日) 感謝のお礼参り(各支部)
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今月は、『仏の教えを習い、学ぶ』というテーマを、
○ 「習学」は日常のなかに ○ 実践してこそ「習学」 の2段落でご解説いただいた。
まず、『「習学」は日常のなかに』の段落では、
〇法華経の「方便品」には、「学習」とよく似た「習学[しゅうがく]」という言葉が見られます「諸仏の法是[かく]の如く 萬億の方便を以て 宜しきに随って法を説きたもう 其の習学せざる者は 此れを暁了[ぎょうりょう]すること能わじ」(㊂P.82.3~4) 仏は、たくさんの手だてを使って、常にそれぞれの人にふさわしい法を説いているのですが、「習学せざる者」は、そのことに気づくことができないというのです。逆にいうと、「習学」をすれば、いつでも、そのときに自分に必要なお諭[さと]しに気づけるということです。
○仏が、私たち一人ひとりに、そのときその場にふさわしい法を説いているというのは、たとえば爛漫[らんまん]と咲くエゴノキが、ある人には生滅変化[しょうめつへんか]する無常の理[ことわり]を気づかせ、またある人には「いま」を精いっぱい生きる大切さを教える「声」を発しているということでしょう。こうした自然の摂理[せつり]をはじめ、さまざまなできごとの中に真理を感じとり、仏の声を聴こうとすることで、私たちは、自分の思い上がりや欲得ずくの考えを反省したり、生きる勇気を得たりして、また新たな一歩を踏みだします。その繰り返しを「習学」というのです。
『実践してこそ「習学」』の段落では
日々、私たちの周囲で起こるできごとは、仏が「万億の方便」を駆使して説く法にほかなりません。受けとめようとする心があれば、だれでもそれに気づくことができます。
ただ、「習学」は知識を得るものというよりも、実践を繰り返すなかで「仏の教えにそった生き方を身につけていく」ものです。たとえば、身近な人と仲たがいをしたとき、相手を責める前に「思いやりの足りなさを教えられているのかな」と学ぶ気持ちになると、素直に謝ることができるように、たとえ困難なことに直面しても、そのことから「自分は今、何を教えられているのか」を学び、前向きな実践につなげて、その生き方を自分のものにしていくのです。
とはいえ、いつでも、どのようなことも、それを仏の説法と受けとめられるほど、心が安定している私たちとはいえません。気づいたことが、すっと胸に落ちるときもあれば、疑問や迷いが心に渦巻くこともあります。 そういうとき、迷った心を再び仏の教えに向かわせるのが「ご供養」や「導き・手取り・法座」です。本会では、この二つに「ご法の習学」を合わせた三つを「基本信行」としていますが、ご供養や法座修行も「ご法の習学」の一環ですから、信仰に根ざした生活すべてが「習学」の二文字に集約されるといえましょう。
では、どうして私たちがこのように「習学」できるのかといえば、先の経文の前段に「但一乗の道[どう]を以て 諸[もろもろ]の菩薩を教化[きょうけ]して 声聞[しょうもん]の弟子なし」(㊂P.81.9~10)とあるとおり、私たちに菩薩の精神が宿っているからです。それはつまり、だれ一人として自分だけが幸せになればいいと考える人はいないということです。その意味で私たちが人さまの幸せを願って法を伝えることも大事な「習学」の一つで、自他の一体感という大きな喜びと幸せがそこにあるのです。
と、締めくくられた。
今月は、第2段落で大切なことをご指導いただいていますので、全文を掲載させて頂きました。5月号では「苦」と「苦しみ」の違いを教えていただき、自分の思い通りにしたいという我執が苦しみになるので、真理に基づくものの見方、「智慧」を身につけることが重要であることを学びました。よって、ふれるご縁を通してすべてが仏さまの説法、救いであると思えるように、『基本信行』の「先祖供養」「導き・手取り・法座」の実践を通して、ご法の「習学」を深めることの精進に一層取り組むことを決定させて頂きましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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6月 4日(火) 9:00〜 開祖さまご命日
6月10日(月) 9:00〜 脇祖さまご命日
6月15日(土) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
6月28日(金) 感謝のお礼参り(各支部)
6月29日(土)〜30日(日) 壮年総会受け入れ
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今月は、『 なぜ、苦しみが絶えないのか 』というテーマを、
◎ 「苦」と「苦しみ」の違い ◎ 「苦」は「智慧」の涌く泉 の2段落でご解説いただいた。
まず、『 「苦」と「苦しみ」の違い 』の段落では、
〇大きな苦しみをかかえたり、苦労を重ねたりすることを「四苦八苦する」などといいますが、この「四苦八苦」が仏教の言葉であることはよく知られています。
〇釈尊はしかし、この「苦」を、いま私たちが一般的に使う「苦しく、つらいこと」という意味で示されたわけではなさそうです。「苦」の語源は「思いどおりにならないこと」を意味する「ドゥッカ」という意味ですから、先の八苦はどれも、「自分にはどうすることもできないこと」を示しています。ところが、それを「なんとかしたい」と望み、そのことにとらわれて諦めきれないと、心に「いやだ」とか「つらい」といった感情が起こってきます。そのとき「苦」は、身心を苛[さいな]む「苦しみ」に変わるのです。
このような苦しみの絶えない人間の様子を、法華経では(「経文略」)「欲にとらわれているから、苦しみが絶えない」と説き、さらには(「経文略」)思いどおりにならない事実を受け入れることができないために苛立[いらだ]ち、あくせくして、苦しみを深くする私たちの心のありようを戒[いまし]めるのです。
『 「苦」は「智慧」の涌く泉 』の段落では
〇私たちのまわりでも、たとえば借金返済の苦しみから逃れようとして、さらによそから借金を重ねる、といった人の話を耳にします。まさに「苦を以て苦を捨てんと欲す」で、それではいつまでたっても苦しみはなくなりません。
西行法師[さいぎょうほっし]は「こりもせずうき世の闇にまよふかな身を思はぬは心なりけり」と嘆き、欲望にとらわれ、ふりまわされて苦しむ私たちに、「どうしていつまでも大事なことに気づかず、心を改めないのだろう」と投げかけています。
その大事なこととは、直面した「苦」を「苦しみ」へと増長させるのではなくて、「苦」との出会いは「智慧[ちえ]」に目ざめるチャンスでもあると気づくことです。苦しみや悲しみ、怒りやつらさにもつながる「苦」も、そこに感情をまじえなければ「無記[むき]」、つまり善でも悪でもないのですから、それをどのように受けとめ、制御するかで、その後の人生に大きな違いが生まれてきます。
〇「苦」から逃げずに、それをそのまま受け入れる覚悟ができると、その「苦」は「智慧」の湧き出る泉ともなります。私たちが本来もっている「智慧」がはたらきだすには「苦」が必要だったと受けとれば、「苦」は楽しみに向かう大切な道しるべとなり、その「苦」も抜き去られるのです。
これが、「苦」があっても苦しまない生き方といえるでしょう。そしてそのことを、仏教では四諦[したい]の法門など数々の教えで伝えています。ただ、それらを学んでも、私たちはいざ苦に出会うと悩み苦しむのですが、それでもいいと思うのです。苦しい思いをしなければ、仏さまの教えという「幸せにつながる道」を歩んでいないかもしれないのですから。
と、締めくくられた。
今月は、「苦」のとらえ方をご指導いただきました。やはり自分の見方・考え方が、現象を善悪でとらえ、自分の都合に合えば「善」、不都合であれば「悪」ととらえているということに気づかされます。
特に第二段落で、“「苦」から逃げずに、それをそのまま受け入れる覚悟ができると、その「苦」は「智慧」の湧き出る泉ともなります。” と説かれ、四諦の法門「苦諦」では、『人生苦から中途半端な逃げかくれをしないで、その実態を直視し見極めること』と解説いただいています。
方便品の「開示悟入[かいじごにゅう]」から仏知見[ぶっちけん]の道に入ることで、「苦」を受け入れられるようになれると、学ばせていただいています。また、方便品では、自らの「仏性」に気づくことの重要性も説かれています。
あらためて、自らの信仰の目的をかみしめ、仏知見を身につける精進をさせていただこうと、決定させていただきます。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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5月 2日(木)〜7日(火) 自由参拝
5月 4日(土) 9:00〜 開祖さまご命日
5月10日(金) 9:00〜 脇祖さまご命日
5月11日(土) 第70回姫路お城まつり
5月15日(水) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
5月19日(日) 第50回青年の日
5月28日(火) 感謝のお礼参り(各支部)
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今月は、『 香る風のような人に 』というテーマを、
◎ 心に春風が吹きわたる ◎ みんな「徳のある人」 の2段落でご解説いただいた。
まず、『 心に春風が吹きわたる 』の段落では、
〇日本の春の情景を美しく表現した歌の一つに、滝廉太郎作曲による「花」があります。
〇その春の花の代表格は桜ですが、桜の花を見るよりも先に、梅や沈丁花[じんちょうげ]や辛夷[こぶし]の甘い香りをのせた 風に、春が訪れた喜びを実感する人も多いのではないでしょうか。
その喜びにも通じる言葉が、法華経の「序品[じょほん]」にあります。「栴檀[せんだん]の香風[こうふう] 衆の心を悦可[えっか]す」 ―― この一説を開祖さまは、「仏さまの香風が衆生の心の中に入ってくると大歓喜[だいかんぎ]が生じる」と、簡潔に説明しています。
仏の教えに出会えた私たちは、その教えを聞き、学び、実践していくなかで、数々の気づきを得ます。
〇そうしてほんとうに大切なことに気づき、悩みや苦しみから解き放たれた悦びを、私たちは「教えによって救われました」と、思わず口にします。それが、開祖さまのいう「大歓喜が生じる」でしょうし、そのときその人は「悦可」しているのです。
〇私たちは、仏さまにお目にかかることはできません。ただ、たとえば本会の大聖堂などで、教えのなかに仏の慈悲を感じとり、その教えを実践することによって生きる喜びに目ざめた人の体験説法を聞くと、私たちもまた悦びを覚えます。それは経文のとおり、教えの尊さが胸中に吹きわたるからだと思います。
『 みんな「徳のある人」 』の段落では
〇越後の良寛[りょうかん]さんは、この「栴檀の香風 衆の心を悦可す」を学び、「一生成香[いっしょうせいこう]」(一生、香りを残す)を座右の銘にしたといわれます。「生涯、人の心をあたたかく包み、和ませ、悦びを与える香風のような人でありつづけよう」と思い定めて、そのとおりに生きたということです。
ただ、法句経[ほっくぎょう]に「徳のある人びとの香りは風に逆らっても進んでいく」「徳のある人はすべての方向に香る」とあるように、人の心を「悦可」するには「徳分」が必要という見方もできそうです。修養や善行の積み重ねが「徳分」を身につける決め手なのかもしれません。
しかし、そういいきれないとも思うのです。私たちがいま、この世に一つの命を授かって生きているというのは、大自然の徳はもちろん、先祖や親の徳をいただいているからです。一人ひとりが、すでに豊かな徳を具えているということです。ですから、私たちは自らの「徳分」に気づけばいいだけです。気づいて、それを成長させれば、だれもが香風を運ぶ「徳のある人」になるのです。
そこで大切なのは、「有り難い」という気持ちです。なにごとにも感謝を忘れない素直で謙虚な人には、自然に人が引き寄せられます。そのうえで示す、明るく、やさしく、あたたかい態度や言葉は、持ち前の徳をいっそう香らせることでしょう。
〇釈尊降誕月[ごうたんづき]であるこの4月をもって、平成が改元されます。これは、平和を醸成[じょうせい]する務めがマンネリに陥らないよう、心を新たに切り替える機会をいただいたものと私は受けとめています。仏の教えという香風を運ぶ生き方が、いっそう大切になります。
と、締めくくられた。
今月は、釈尊の降誕を感謝でお祝いすると同時に、そのおかげさまで悟られた真理「諸法実相」を理解し、自らの “ 仏性 ” を自覚し、成仏をめざした精進をさせていただけます。そして、ご縁になった方々にも、自らの仏性に気づいていただけるふれあいを心がける、そのことに本気で、本腰で取り組んでいく決定を誓わせていただくことが大切である。
本文では、「序品」に触れていただき、いよいよ実相の解明がなされる方便品を、来月はご解説いただけると思いますが、弥勒菩薩に向かって文殊菩薩が、「世尊はきっとこれから『妙法蓮華』の教えをお説きになるに違いありません。みなさん、合掌して一心に待っておいでなさい」とお説きになります。これから説かれる真理を素直に信じて、成仏への目標に向かって真っすぐに精進いたしましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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19:00〜21:00 夜間朔日参り(当番:高砂)
4月 4日(木) 9:00〜 開祖さまご命日
4月 6日(土) 8:40〜 降誕会
13:00〜 花まつりキャンペーン
4月7日〜8日 団参
4月10日(水) 9:00〜 脇祖さまご命日
4月14日〜15日 団参
4月15日(月) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
4月27日(土) 感謝のお礼参り(各支部)
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今月は、『 自他の幸せを願う心 』というテーマを、
◎ 「仏の子」だからこそ ◎ 生きた経典として の2段落でご解説いただいた。
まず、『 「仏の子」だからこそ 』の段落では、
〇私たちはみな、だれもが、自分や家族の幸せを願っています。そして、同時に他人の幸せを願う心も、私たちは持ち合わせています。
無量義経に「広大な慈悲の心をもって人びとの苦しみを除き、災難から救ってあげることができる」とあります。みなさんには、その自覚があるでしょうか。
〇つまり、「仏の子なので、人びとの苦しみを除き、災難から救って、安楽な気持ちにしてあげられる」というのです。すると、私たちに「仏の子」という自覚があるかないかが大事になりそうですが、実際にそのような自覚をもって人とふれあっている人は少ないかもしれません。
ただ、たとえば「私たちの命は本来、無常[むじょう]であり、無我[むが]なのだ」ということがわかったら、その人は「仏の子」だと思うのです。三法印[さんぽういん]について自ら学んだり、あるいは人から聞いたりして、「ほんとうにそうだな」と胸に落ちるのは「仏の子」だからです。
〇少しでも「ものごとは変化してやまないのだ」とか、「みんな仏性のあらわれで、この世のすべてが大調和している」と気づいたならば、それは「仏の子」の自覚に違いなく、その人は自他の幸せを願い、周囲に幸せを運ぶ菩薩の一人といえるのです。
『 生きた経典として 』の段落では
〇佼成会では、「入会者即布教者」といいます。経典には「自分がまだ迷いから抜けだすことができていなくても、仏の教えを聞いた人は苦しむ人たちを救うことができる」と、はっきり示されています。
たとえば、友人に強い怒りを抱いていた人が、仏の教えを聞いて「その怒りは、友人を自分の思いどおりにしたいという利己心[りこしん]が原因だった」と内省したとしましょう。そして、そのことで和やかな関係をとり戻した体験談を、人を恨みつづけて苦しんでいる人に話したとき、「私もそのような見方、受けとめ方を身につけたい。気持ちを楽にして、幸せになりたい」と思わせる力がそこにあるのです。
なぜなら、たとえ自分はまだまだ未熟でも、仏の教えが真理にかなっているからです。そして、だれもが人と調和したいと願っているからです。
〇経典にはまた、「この教えは人びとが菩薩行を実践するところにある」とあります。いきいきと明るく生きる自分の姿をとおして、苦悩に沈む人の心に真理の光を届け、安らかな人生に導いていく「一切衆生の良福田[ろうふくでん]」、すなわち幸せを生みだす一人ひとりになっていきたいと思います。
その意味で私たちは、いつでも、だれにも、「明るく、優しく、温かく」の姿勢を忘れないことです。経文を上手に説明できなくても、相手を思いやる姿勢に徹する人は、自他に幸せを運ぶ「生きた経典」となり得るのです。
と、締めくくられた。
1月の「佼成」では「みんな善の根っこをもっている」というテーマで、善根(仏性)の自覚の重要性とその自覚に立つと、 “ 布教伝道 ” への発心が芽生え、まず身近な人の善き縁になろうと、具体的にお示し頂きました(「徳行品:序分」)。
2月のご法話では「人を思いやる心の習慣」というテーマで、人との縁を結ばせて頂くときの、欲得抜きの慈悲かけの大切さをお示し頂きました(「説法品:正宗分」)。
3月は、創立記念日を迎えるにあたり、開祖さまの創立の精神「人を救い、世を立て直す」という願いを、「自他の幸せを願う心」というテーマで、相手を思いやる姿勢に徹する人が、自他の幸せを運ぶ「生きた経典」となるという、実践の大切さでお示し頂きました(「十功徳品:流通分」)。
法華経の開経である無量義経を3ヵ月にわたってご解説頂きました。人としての実相(仏性)を自覚し、皆に備わるそれを、気づいて頂けるよう、努力精進することをお誓いいたします。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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19:00〜21:00 夜間朔日参り(当番加古川第二支部)
3月 4日(月) 9:00〜 開祖さまご命日
3月 5日(火) 8:40〜 立正佼成会創立記念日(映像配信)
3月10日(日) 9:00〜 脇祖さまご命日
3月15日(金) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
3月28日(木) 感謝のお礼参り(各支部)
3月31日(日) 9:30〜 姫路教会発足55周年記念式典
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今月は、『 人を思いやる「心の習慣」』というテーマを、
◎ 得は徳に通じる ◎ すべては一つ の2段落でご解説いただいた。
まず、『 得は徳に通じる 』の段落では、
〇街の中で困っている様子の人を見かけたとき、みなさんはどうされるでしょうか。そばに寄って声をかける人も多いと思いますが、気にかけながらも、よけいなお世話かもしれないと、近づくのをためらう人もいることでしょう。私たちはふだん、ものごとを損得勘定で判断し、得にならないことには消極的になりがちです。人は、なかなか欲得ずくの心を超えられないのです。
〇損得の「得」は道徳の「徳」に通じる、といわれます。
一文の得にもならないと思われることであっても、人さまを思うがゆえの実践は、それを行う人の徳分として、人間的な成長など尊い心の財産になります。人として成長したいと願う欲得が、人間性の向上という「徳」を招き寄せるという意味で、「得」は「徳」に通じるということです。
ただ、そのことがわかっていても、困っている人を見て「なんとかしてあげたい」と願う気持ちを実際の行動に移す、その一歩を踏みだす勇気が出ない人もいます。
無量義経に、「憐愍[れんみん]の心を生じ大慈悲を発[おこ]して将[まさ]に救抜[くばつ]せんと欲し、又復[またまた]深く一切の諸法に入れ」(説法品[せっぽうほん])とありますが、これは菩薩に「目の前の人を憐れみ、思いやりの心を奮い立させて、『苦しみから救い出そう』と決心しなさい」と教える一節です。そして、そのためには「自分本位のとらわれや執着を離れて、ものごとの真実を見極めるよう精進することが大切です」と説かれています。
要するに、なかなか損得勘定を捨てられない私たちでも、精進によって欲得ずくの心を超えることができ、それが心の習慣になれば、どのようなときでも損得勘定に惑わされずに、人を思いやる気持ちを自然に行動にあらわせるということです。
『 すべては一つ 』の段落では
〇「雪が降ったら/寒かろう/冷たかろうと/お墓に/傘をさしに行く/幼子亡くした/お母さん」
このような詩の一節を目にしたことがあります。子を亡くした母親の、切ない気持ちがよく伝わってきます。それと同時に、菩薩が人を思いやる心情というのはこういうことではないか、と教えられた気がしたのです。
〇先に述べた、「自分本位のとらわれや執着を離れて、ものごとの真実を見極める」というのは、この母親のように、自分と相手を一つと見ることです。さらに、すべてを一つと見れば、人の喜びや悲しみがよくわかり、そうしてわきあがる憐みの心や慈悲の心に突き動かされて、思いやりを行動に移せるのです。「すべては一つ」という見方によって、思いやりが「心の習慣」になるということです。
以前、開祖さまの生誕地の新潟県十日町市を訪ねた時、公園に建つ開祖さまの胸像が雨に打たれているのを見て、私も師父[しふ]に傘を差しかけた覚えがあります。いつでも、だれに対しても、自然に思いやることができるよう、私もいっそう精進をしてまいりたいと思います。
ただ、至道無難禅師[しどうぶなんぜんじ]は「慈悲して慈悲知らぬとき、仏というなり」と教えています。相手と一つになれば、慈悲をしているといった意識もしないまま、その思いやりがお互いの喜びや心の成長に結ばれていくのです。
と、締めくくられた。
今月は、「無量義経」を引用され、「無量義修学の順序」をお示しいただき、「無量義は一法より生ず、その一法とは実相なり」の内容から、諸法の実相(「自分本位のとらわれや執着を離れて、物事の本質を見極める」)の解明が、「法華経」の課題であり、人としての実相、 “ 仏性の自覚 ” を1月号で会長先生は促してくださいました。
しっかりと法華経を学ばせていただくことの重要性をご指導いただき、あらためて「三つの基本信行」の実践、中でも「ご法の習学」を深めることを決意させていただいた。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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19:00〜21:00 夜間朔日参り(当番姫路東・姫路西・
相生・加古川第一支部)
2月 3日(日) 9:00〜 節分会
2月 4日(月) 9:00〜 開祖さまご命日
2月10日(日) 9:00〜 脇祖さま報恩会
2月15日(金) 9:00〜 涅槃会
2月28日(木) 感謝のお礼参り(各支部)
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まず、平成31(2019)年最初のご法話ですので、今年の指針と受けとめ、かみしめさせていただきたい。
今月は、『 みんな善の根っこをもっている 』というテーマを、
〇 乾いた根に潤いを与える 〇 ほんとうの「正定聚」に の2段落でご解説いただいた。
まず、『 乾いた根に潤いを与える 』の段落では、
これは、若いころ病気に罹[かか]って、生涯その病とつき合っていかなければならないと告げられたある人が聞かせてくれた話です。将来を悲観して自暴自棄になりかけていたとき、その人が信仰の先輩から繰り返し伝えられたのは、「あなたには善根が具わっている」という言葉だったそうです。
ところが、そう励まされているうちに、自分の存在価値を否定する気持ちや、人生に対する悲観的な見方が消えて、「自分も人のために何かしたい、できるのではないか」という心がふつふつとわいてきたというのです。
私たちが読誦する法華三部経[ほっけさんぶきょう]のなかの無量義経[むりょうぎきょう]に、「衆生の諸有[しょう]の善根を潤漬[にんし]し」(徳行品[とくぎょうほん])とあります。善根とは、善い果報をもたらす土台となる根っこのことですが、「だれにも仏と同じ性質が具わり、みんな仏のあらわれである」ということを示す「仏性[ぶっしょう]」と同じ意味あいと、私は受けとめています。ですから、だれもが善根をもっているといえるのです。ただ、その根っこが健やかに育ち、伸びるには、乾いた根に活力を与える潤いが欠かせません。
人生に絶望し、自己否定するばかりの若者にとって、「あなたにはかけがえのない善根があるのですよ」と、自分の根幹を肯定してもらえたことは、まさに、かさかさに乾いていた根に、惜しみなく、たっぷりと潤いが与えられるに等しいことだったはずです。
『 ほんとうの「正定聚」に 』の段落では
無量義経の一節は、先の「善根を潤漬し」のあと、「善の種子[しゅじ]を布いて功徳の田[でん]に遍じ」と続きます。「世のため人のために尽くす行為の本になる、善の種子をたくさん播[ま]こう」 ―― 要するに、「仏の教えを伝えて、自分も人も一緒に幸せになろう」と、「布教伝道[ふきょうでんどう]」を説いているのです。
では、なぜここで「布教伝道」が説かれるのかといえば、理由は一つです。
前述した若者のように、仏の教えを聞いて心の根が潤い、迷いの淵から抜けだしたあとには、「ほかの人も、自分と同じように苦悩から離れ、目の前の幸せに気づいてほしい」という慈悲の心が、とめどなくわきあがるからです。
では、その「布教伝道」のあり方はというと、まず、「身近な人の善き縁になろう」と願って生きることです。人を思いやるやさしい言葉や態度が、苦しむ人の乾いた心の根に潤いをあたえるのですから。
そのうえで、私たちは読経供養や仏さまの教えの習学など日々の基本信行を実践しつつ、仏教に縁のない人の手をとっていく。それが、先の経文の結びとなる「普[あまね]く一切をして菩提の萌[め]を発[おこ]さしむ」という最高の生き方につながるのです。
このようにして、みんなが「仏さまのようになりたい」と決意した仲間 ―― ほんとうの意味の「正定聚[しょうじょうじゅ]」になることを前提に、私の大学の恩師が「布教なくして宗教なし」といわれました。私たちは、救いを求めるすべての人にとって、いつでも心安らぐ「正定聚」でありたいと思います。
と、締めくくられた。
今年は元号も改まり、名実ともに新たな年が始まります。教会も発足55周年を迎え、この姫路の地に仏さまの教えを、幹部一同、一丸となって「布教伝道」させていただく心構えを、細かく、丁寧にご指導いただいたと、深く感謝申し上げ、まず、一人ひとりの信者さんを大切に手取りさせていただくことを誓願いたします。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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平成31年1月1日 6:30〜 元旦参り
朔日参り(布薩の日)
1月 2日(水)〜6日(日) 自由参拝
1月 4日(金) 9:00〜 開祖さまご命日
1月 7日(月) 9:00〜 御親教
1月10日(月) 9:00〜 脇祖さまご命日
1月15日(土) 9:00〜 釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)
1月19日(土)〜25日(金) 寒中読誦修行(AM 6:30〜)
1月20日(日) 9:00〜 成人式
1月28日(月) 感謝のお礼参り
]]>今月は、『 使命にめざめる 』というテーマを、
〇 道を楽しむ人に 〇 願いをもって の2段落でご解説いただいた。
まず、『 道を楽しむ人に 』の段落では、
この八か月間、「八正道」の徳目を一つずつとりあげて、私なりにその意味あいをお話ししてきました。そして今月は、「八正道」の最後に示された「 正定[しょうじょう] 」です。
「正定」とは、心が常に仏の教えに安住していて、周囲の変化によって動揺しないことと受けとめられますが、たとえ貧しくても悲観せず、そこにある幸せを精いっぱい感受する橘曙覧[たちばなあけみ](幕末のころ福井に生まれた歌人)のような心も、「正定」の一つでありましょう。
「楽しい」とか「楽しむ」という境地はほんとうに大切なもので、「八正道」の最初の「正見」について「気持ちが楽になる見方」(本年5月号)とお話ししたことにも通じます。『論語』にも「之[これ]を知る者は之を好む者に如[し]かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず」とあります。人が道を修めようとするとき、その道を「楽しむ人」にはだれもおよばないというのです。
なにごとも楽しいと受けとめる ―― そういうものの見方を心がけていると、気持ちが楽になって、目先の苦に迷うことのない、ほんとうに安楽な人生を歩めるのです。
『 願いをもって 』の段落では
ところで、「八正道」の「正」という字は、「一」と「止[とめへん]」が組み合わさってできています。仏の教えの「一」といえば、もちろん「真理」であり「法」です。いわば「八正道」の各徳目は、いずれも私たちが「真理に止[とど]まる」ための実践であり、その基本となるのが初めにおかれた「正見」といえます。その意味でいえば「八正道」のすべてを修めるのは荷が重いという人も、日々の暮らしのなかで、何かにつけ、ふと省[かえり]みて「正見」に立ち返る習慣をつけることが大事なのだと思います。
こうして真理にそった生き方を求める仲間を、仏教では「正定聚[しょうじょうじゅ]」といいます。平たくいうと「仏さまのようになりたいと決意した仲間」のことですが、この言葉からは「正定」のとらえ方をさらに深めることができそうです。
仏さまのように、ものごとをありのままに見ること(正見)によって、静寂で澄みきった心(正定)を得る ―― それは「あの人の苦しみを除いてあげたい」「この人が慈悲の心を得るお手伝いができたらいいな」といった、菩薩としての願いをもって生きるということでもあるのです。
ただ、そのような誓願[せいがん]をもつに至る方法は、もちろん「正見」に限りません。「八正道」が八つの徳目に分けて示されているのも、「一人ひとりの個性にあった精進の仕方でいいのですよ」という、釈尊のあたたかな教えの示し方に違いないのです。
私たちはみな、お互いに生かし生かされています。そのなかで、仏の教えをとおして人間らしい生き方を学んだ私たちは、仏への道を歩みつつ、一人でも多くの人の仏性開顕[ぶっしょうかいけん]という使命を果たしていきたいと思います。
と、締めくくられた。
5月号からはじまった「八正道」のご指導、自行としての8項目ととらえていましたが、開三顕一では「仏性の自覚」をうながされます。仏子としての自覚から、法師の自覚に高まり、楽って法を伝える自分になるために「八正道」を身につける精進が大切であると感じさせて頂いた。そして、菩薩としての願いをもって生きる、その誓願をもつに至る方法が「八正道」であり、八つの徳目に分けて示されているのは、「一人ひとりの個性にあった精進の仕方でいいのですよ」という、釈尊のあたたかい教えの示し方と解釈されながら、会長先生の私たちに対する期待とお慈悲が、しみじみと伝わり感謝でいっぱいであります。
来年次は、姫路教会発足55周年を迎えます。教団創立100周年に向け、“ 惜しみなくつながり ―― 菩薩を育てる苗代になる ” というマザープログラムの実現に向かい、信者さんと一丸となって、しっかり布教伝道に取り組むことを誓願いたします。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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