『私の陀羅尼』への沢山の投稿、誠にありがとうございました。
皆さん、それぞれに、自分の中の仏さまに呼びかける、心の
こもった陀羅尼を考えてくださり、本当に感動いたしました。
それでは、皆さんの陀羅尼をご紹介させていただきます。合掌
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ここで一休み
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(ペンネーム)ハナちゃん
【私の陀羅尼】
やさしく やさしく
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
病気のお陰で周りの方に、いっぱい感謝できました。そして病気は私に優しさを教えるためとご指導を頂き、やさしくなりたいと願って「やさしく やさしく」と決めました。毎日心に「やさしくやさしく」と言って過ごせる有難い日々です。
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(ペンネーム)そよかぜ さん
【私の陀羅尼】
ゆっくり お互いさま そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
普段からせかせかして気がもめるので、ゆっくりの心で思いやれるよう、又いろんな人のお陰さまで過ごさせて頂いていますので、お互いさまの心で、穏やかな心で過ごさせて頂けますように。
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(ハーフタイム)
ティータイムのお時間です
※ 6/21の大聖堂前の蓮の花です。
(撮影者の許可を頂きました)
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(ペンネーム)あすかちゃん
【私の陀羅尼】
やさしい声 そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
声を出す仕事をしていたので、年をとってもやさしい言葉・声で人をあたたかくする。
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(イニシャル)H・I さん
【私の陀羅尼】
何事にも腹を立てない そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
気に入らない事にも腹を立てず感謝で受けとれたら心がおだやかで居られます。腹を立てた後は気分が悪いから。
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(ペンネーム)つぶあんこ さん
【私の陀羅尼】
スマイル そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
笑顔でふれ合って行きたい。そして みんなと一緒に明るく楽しく元気で・・との思いをこめて。
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(イニシャル)S・M さん
【私の陀羅尼】
(急に態度の変わる人に)待ちます そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
何があっても(笑顔でそわか)
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(イニシャル)H さん
【私の陀羅尼】
ほんわか そわか
愚痴は言うまい そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
現状に満足しきれない心がよく出るので、常に感謝の心でいられるようになりたい。
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(イニシャル) K・Kさん
【私の陀羅尼】
感謝 感謝 感謝
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
朝目がさめた時から、夜休むまですべてに感謝です。合掌
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(イニシャル) K・K さん
【私の陀羅尼】
いそがは まわれ そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
いつも忙しそうにしていると、よけいにやっかいな事にまきこまれてしまう事もあるので、ゆっくりと一日を大事にしていきたいと思いました。
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ここで一休み
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(イニシャル) K・K さん
【私の陀羅尼】
おだやか運転 そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
歳も高齢になりました。車にのる時は車に声をかけて・・ おねがいします・ありがとうございました。
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(ペンネーム) てるちゃん
【私の陀羅尼】
おおらかな心で そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
今日一日への健康・お仕事・人との出会いを大事にさせて頂くことに。
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(ペンネーム) てっちゃん
【私の陀羅尼】
気づかい・心づかい そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
現場での仕事の職人さんとの出会いを大切に、心づかいをさせていただく。
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(ペンネーム) ひろやん
【私の陀羅尼】
ほんわか あたたか そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
人とのコミニケーションを大事にさせて頂くには、いつも心と顔にやさしが出来るようにいしきさせて頂きます。
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(ペンネーム) 吉川英治 さん
【私の陀羅尼】
こらえて こらえて 堪忍 そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
怒りやすい性格のため。
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(ペンネーム) こばちゃん
【私の陀羅尼】
笑顔で羽ばたけ そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
コロナで気持ちも暗くなりがちだったので、これから少しでも明るく積極的に行動できるように。
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(ペンネーム) 花々 ( M・H )
【私の陀羅尼】
えみ そわか
【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
(幸あれ・よろしく・めでたい)
笑う門には福来る。短気な私ですので・・目標です。 いつでも笑顔で。
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この度、姫路教会長のお役を拝命致しました、小林宏彰と申します。
姫路教会の皆さま、どうぞよろしくお願い申し上げます。
今回の『しらさぎ日記』リニューアルを期しまして、これからは「教会長のコラム」として、私が日頃考えていることや、感動したこと、皆さんと分かちあいたいと思ったことなどをつづっていきたいと思います。
第1回は、『わたしの陀羅尼(だらに)』です。
会長先生はご法話の中で、陀羅尼を「それを唱えれば、心のなかで動き回る貪りや怒りや自己中心の思いを抑えて、自分のなかにある仏の心をはたらかせる力をもつ、呪文のような言葉」とご説明くださり、ご自分の陀羅尼「おんにこにこ はらたつまいぞや そわか」をご紹介くださいました。
また、國富理事長さんは、「楽しく 楽しく 楽しく」をご自分の陀羅尼とされていることをご紹介くださいました。
そこで、私も自分の陀羅尼を持たせて頂きたいと思い、考えました。
私の陀羅尼は、『ほんわか そわか』と、『思いやり運転 そわか』とさせて頂きました。
『ほんわか そわか』は、私が初めて教会長のお役をいただく時に、会長先生から頂いたお言葉「ほんわかした人になってください」にちなんでつけさせて頂きました。
『思いやり運転 そわか』は、車を運転する時に、つい我が出てしまいがちになるので、それを抑えるためにつけさせて頂きました。
「そわか」という言葉は、自分のなかの仏への呼びかけとなり、仏心に立ち返るスイッチになるということなので、人と会う時や車の運転をする前に、この『ほんわか そわか』と『思いやり運転 そわか』を唱えさせて頂いています。
ついつい忘れてしまうこともありますが、『ほんわか そわか』は、自分の心を落ち着けて、優しい気持ちを持つのに役立っていますし、毎日「今日も、よろしくお願いします」と車に語りかけ、吊るしてあるお守り(写真)をさわって、『思いやり運転 そわか』と唱えると、車の中でカッとなる回数が減り、相手に譲る心の余裕が生まれ、穏やかな気持ちで運転できるようになってきました。
ぜひ、皆さまも、自分の陀羅尼を考えてみてください。
そして、よろしければ、この『しらさぎ日記』ブログに投稿してください。
どうぞよろしくお願い致します。
合掌
姫路教会長 小林宏彰
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ただ今 リニューアル工事中です
〇 懴悔は悟りと一つ ○ 法華経、そして佼成会の真精神
の2段落でご解説いただいた。
今月は、2段落のご法話の掲載は省かせていただきました。
この度、11月30日をもって退職させていただくことになり、その身辺整理に多忙を極め、感想をお伝えするのが精一杯でした。申し訳ございません。
さて、先月の感想の中で、『令和元年より、3年間にわたり、会長先生より法華三部経の要点を「佼成」のご法話でご解説いただきました。各品の要点を会長先生の視点で取り上げていただき、そして、その要点をとおして具体的な心の持ち方、実践の在り方を分かりやすく、丁寧に教えていただきました。この3年間の掲載は大きな宝物をいただけたと感謝でいっぱいです。』 と、述べさせていただきましたが、今月は2ヶ月続けて法華三部経の総まとめである「観普賢経」をご解説いただき、2段落では「法華経、そして佼成会の真精神」のテーマを通して、昭和20年10月13日のご神示で示された本会の使命を、会長先生が改めてこれからの布教伝道に向かう心構えをご指導いただいていると信受させていただきました。
成仏に向かって精進させていただく私たちにとって、合掌礼拝は開祖さまが率先して大切にされた常不軽菩薩の姿であり、それは懴悔という悟りを身で示す最も身近な実践であるとご指導くださいました。
間もなくお役は終えさせていただきますが。常不軽菩薩の姿勢をお手本として,生涯精進させていただくことを決定させていただき、「教会長の話」を終わりとさせていただきます。
皆様、5年間誠に有難うございました。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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き、文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『なぜ、反省が必要なのか』というテーマを、
〇 高みをめざすから反省がある ○ 何度も繰り返しながら
の2段落でご解説いただいた。
まず、『高みをめざすから反省がある』の段落では、
東洋思想研究の権威(けんい)として知られる安岡正篤(やすおかまさひろ)師によると、私たち人間は「少しでも高く、尊く(とうとく)、大いなる存在に向(むか)おうとする本能」をもっていて、そのはたらきによって神仏を仰(あお)ぎ、敬(うやま)う心が生まれるといいます。同時に、人としての高みをめざすがゆえに、自分に至らないところがあると気づいたときには、それを省(かえり)みて恥(は)じる心が生じると述べています。つまり、反省や懴悔(さんげ)が人間の心を育て、ひいては人類の進歩や向上を支えてきたということです。
ところが、一般的に反省や懴悔は、不名誉なものと思われがちです。とくに懴悔は、「自分のおかした罪悪に気づき、それを神仏や他人に正直に話して悔(く)い改めることを誓う」と辞書にあるので、その言葉の印象からか、否定的で暗いイメージをもたれています。そのため、失敗をして反省したり、人前で懴悔したりするのは「恥ずかしくていやだ、情けない」と思う人がいるのでしょう。
しかし、理想とする存在や人間的向上をめざせばこそ、反省や懴悔の心が起きるとすれば、反省や懴悔は向上を求める前向きな意思のあらわれです。情けなくて、みじめなことなどではなくて、むしろ失敗や挫折(ざせつ)に恥じ入りながら向上していくのが、人間の当たり前の姿なのだと思います。
私たちになじみ深い法華三部経(ほっけさんぶきょう)では、その結びで、法華経(ほけきょう)の教えを実践していく上で必要なこととして、懴悔をテーマとする仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう)(以下、観普賢経)が説かれます。どれほど精進(しょうじん)しても私たちは雑念(ざつねん)に惑(まど)わされますし、至らないことのすべてに気がつくわけではありませんから、いつでも反省、懴悔する心が大切で、それが精進と一体になるとき、成長が促(うなが)されるということです。
繰り返しになりますが、反省も懴悔も、私たちが理想を求めて生きていることから生じるものです。それはいわば、仏性(ぶっしょう)のはたらきによる向上の証(あかし)であり、菩薩の証明です。だとすれば、反省や懴悔ができること自体が、尊く、有り難いことにほかならないといえるのではないでしょうか。
『何度も繰り返しながら』の段落では
先の東京オリンピックでは、「自分に足りない部分を見定めて、さらに上をめざします」といった敗者のコメントにも胸打たれましたが、このこと一つをとっても、人生において反省が向上と一つのものであることがわかります。
ただ、反省したり懴悔したりしたことが守れずに、失敗と後悔(こうかい)を繰り返すことがあるのも人生です。そのなかで、「懴悔したからには、絶対に同じ過(あやま)ちをおかしてはならない」と窮屈(きゅうくつ)に考えると息苦しくなります。反省を生かそうと努め、あるいは信仰における懴悔を実行しようと励むことは大切ですが、そのことにとらわれすぎると、思うようにできない自分や人を責めることにもなりかねません。
観普賢経には、「煩悩(ぼんのう)をすっかり断(た)ち切っていなくても、けっして煩悩に溺(おぼ)れないこと。菩薩の行ないはそれが大切です」とあります。開祖さまは、「自分が弱くて間違いやすい人間であることを思い知ったら、新たな決定(けつじょう)をし直せばいいのです。今年だめだったら、来年は必ずと決心すればいい」と、至らない私たちに助け舟をだしています。
いいところも悪いところも含めて、神仏の前に自分のありのままをさらけだすと、心が洗われます。そうしてまた、再始動すればいいのです。その反省や懴悔が精進の歩みを支える杖となって、少しずつ人間的に成長していくのです。
また、人はなすべき仕事に没頭(ぼっとう)しているときがもっとも神に近いという言葉にふれたことがあります。観普賢経に、「若(も)し懴悔せんと欲せば 端坐(たんざ)して実相(じっそう)を思え」とあるとおり、反省、懴悔をしたら、あとは自己中心の見方を離れて、日々を一所懸命に暮らすことが大切なのです。
と、締めくくられた。
令和元年より、3年間にわたり、会長先生より法華三部経の要点を「佼成」のご法話でご解説いただきました。各品の要点を会長先生の視点で取り上げていただき、そして、その要点をとおして具体的な心の持ち方、実践の在り方を分かりやすく、丁寧に教えていただきました。この3年間の掲載は大きな宝物をいただけたと感謝でいっぱいです。
さて、今月は法華三部経の総まとめである「観普賢経」をご解説いただき「なぜ反省が必要なのか」のテーマは、成仏に向かって精進させていただく私たちにとって重要な問いかけであります。会長先生は『年頭法話』でも「反省創造しよう」と方針をお示しいただきました。反省・懴悔の重要性をあらためて確認させていただきました。これからは、自己中心の見方を離れ(端座して実相を思い)、自分の仏性を自覚し、ふれる人の仏性を拝み切る日々を、一所懸命暮らしましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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今月は、『 原点に帰ろう 』というテーマを、
〇 「十よりかえるもとのその一」 ○ 道心と童心
の2段落でご解説いただいた。
まず、『「十よりかえるもとのその一」』の段落では、
信仰をはじめたばかりのころ、私たちは先輩から一つ一つ教えていただきながら、自分でも教えを求めて学び、少しずつ仏の教えを身につけてきたと思います。法座(ほうざ)にすわれば法によって救われた人の話に感動し、道を求める気持ちがさらに高まって、一方では自分の至らなさに気づかされ、また精進(しょうじん)する ―― その繰り返しが「求道(ぐどう)」です。
ところが、それに慣れてくると、最初のころの感動や求める気持ちが薄れ、わかったような気になって、自己を磨(みが)くという信仰本来の目的を見失ってしまいがちです。
「十まで習ったから、もうそれでいい」ということではなくて、「十まで知ったなら、また一に戻っておさらいをする」。そうすることで、最初に学んだときには気がつかなかったことに気づかされ、また一歩、教えの真意(しんい)に近づくというのが、冒頭に掲げた言葉の意味あいだと思います。
法華経(ほけきょう)においても、二十八品(ほん)の結びとなる「普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)」は、まさに法華経全体を総括(そうかつ)する内容で、そのことをとおして、つねに原点に帰る大切さが教えられています。
晩年の開祖さまが、法話でよく同品の「四法成就(しほうじょうじゅ)」にふれたのも、序品(じょほん)からの法華経の教えをやさしい表現でおさらいする内容だからだと思います。仏に護(まも)られていることを信じて、善(よ)いことを繰り返し、信仰の仲間とともに、社会全体の幸福を願って思いやりの実践につとめる ―― これが、仏の道を信じて歩む私たちの基本、原点だからです。
『道心と童心』の段落では
「恋法(れんぽう)」という言葉があります。ただひとすじに、純真(じゅんしん)に法を求めるという意味で、「勧発品」の「勧発(かんぼつ)」のことを天台大師(てんだいだいし)がこのように解釈して記された言葉のようです。
たしかに、仏の教えを聞かせていただきたいと一心に願うのは、あたかも人を恋(こ)い慕(した)うときのように、相手(法)のことをもっと知りたいと思い、相手とともに歩みたいと願って、それを純粋(じゅんすい)に求める気持ちに似ています。いつでも信仰の原点に帰って精進するには、人を恋するように道を求める気持ちが原動力になるということでしょう。
ただ、そうはいっても、一般社会にあって日々の生活を大切にしながらとなると、信仰一途(いちず)には行けないこともあります。生きるためには利害(りがい)や打算(ださん)も無視できなくて、そのために精進がおろそかになるのもやむを得ないかもしれません。それでも、みんなと一緒にいい社会をつくり、ともに幸せになりたいという、幼い子どもがもつような純粋な願いを忘れなければ、いつでも発心(ほっしん)したころの気持ちに帰ることができます。つまり、「道心(どうしん)」とともに「童心(どうしん)」を失わないことが大切だということです。
「勧発」の「勧(勧(すす)める)」という言葉には、「励まして気持ちを奮(ふる)い立たせる」という意味もありますが、「普賢菩薩勧発品」では、仏の教えを実践する人が仏から「善哉(ぜんざい)」とほめられたり、頭をなでられたりします。日々の仏道実践(ぶつどうじっせん)に新鮮な気持ちでとりくむとき、仏はこのようにいつでも私たちをあたたかく見守り、励ましてくださるのです。
そう思うと、地道(じみち)な精進にも弾(はず)みがついて楽しくなってきます。原点に帰れば、ご供養も法座もサンガとの出会いも、感動を新たにする喜びの場であると気づくのです。
と、締めくくられた。
今月は「原点に帰ろう」というテーマでご指導をいただきました。「法華経においても、二十八品の結びとなる『普賢菩薩勧発品』は、まさに法華経全体を総括する内容で、そのことを通して、常に原点に帰る大切さが教えられています。」(本文)法華経に出会えた私たちが、その教えを「ほんとうに自分のものにする」、本当に自分のものにするというのは「真の功徳を得る」ということにほかならない。そのためには「四法成就」が必要であると『法華経の新しい解釈』でも説かれています。
つまり「諸仏に護念せらるる(信仰の確立)」「徳本を植える(自行の確立)」「正定聚に入る(僧伽意識の確立)」「一切衆生を救う心を発す(化他行の確立)」ために、三つの基本信行の一つひとつを丁寧に実践させていただくことが、原点に帰ることではないでしょうか。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『善い縁を結ぶために』というテーマを、
○ 最高のご縁とは ○ 心の姿勢が大事
の2段落でご解説いただいた。
まず、『最高のご縁とは』の段落では、
私たちは日々、さまざまなご縁のなかで生きています。縁によって生かされている、といってもいいでしょう。人との出会い、ものごととの出会い、そして家族との会話一つも、そのときのタイミングが生みだす縁によるものです。
そうした縁の一つ一つが、いつでも善いものであってほしい、喜ばしいものであってほしいと、私たちは願います。
しかし、そう都合よくいかないのが私たちの人生です。とくに人とのご縁では、いやなことや不都合なことが起きると、とたんにその出会いは善縁(ぜんえん)と感じられなくなります。
神道(しんとう)の黒住教(くろずみきょう)を開かれた黒住宗忠(むねただ)という方は、何につけ「善悪ともに天命(てんめい)と思えば、少しも苦にならない」といわれ、「何事も有(あり)がたひにて世にすめば むかふものごと有がたひなり」と示されています。つまり、この世のはたらきはすべて天命であり神仏のはからいなので、めぐりあう縁に善いも悪いもなく、自分中心の見方をしなければ、何もかもが必要あって出会う有り難い縁だということです。
そして、そうした縁をとおして真理を学び、受けとることができたら、それこそが「善い縁を結ぶ」ことの本来の意味だと思います。仏教徒であれば、仏の教えを伝えるご縁がそれに当たります。すると、すでにサンガに連なる私たちは、最高の善縁に恵まれた幸せ者といえそうです。
『心の姿勢が大事』の段落では
ところで、私たちはどうして善い縁を望むのでしょうか。
漠然(ばくぜん)と「そのほうが幸せだから」と思う人も多いでしょうが、仏の教えからすると、私たちは仏性(ぶっしょう)そのものとして生まれてきたからです。それが、善い縁を結びたいと願う根源的(こんげんてき)な理由です。すべてが調和した円満な状態を、私たちの心はつねに求めているのです。
そのような私たちが、つい顔をのぞかせる自分勝手な思いに負けないで、出会う人やものごとをいつでも善い縁にしていくポイントは、そのご縁が何を教えているのかを「学ぶ」姿勢と、そのことで気づいた点を「省(かえり)みる」ことです。仏は、あらゆるかたちで教えを説き、真理を示していますから、人やできごととの出会いのなかにあるお諭(さと)しをキャッチすることで、すべてが善縁となるのです。
また、法華経(ほけきょう)の「妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)」は、子が親を仏の教えに導く説話ですが、ここでは親である妙荘厳王が、立場や体面(たいめん)にとらわれないで「柔軟(にゅうなん)」に子の進言(しんげん)を聞き入れ、「謙虚」な気持ちで仏道修行に励む姿勢が描かれています。
開祖さまは、善い縁をつくるには「まず人さまを拝(おが)むこと」と示され、自分を高く見せようとする小我(しょうが)を捨てると、善い縁となるふれあいが生まれるともいっています。心一つで、わが子が人生の師ともなる善縁が展開するのです。子どもからの指摘を柔軟に受け入れられない「頑固(がんこ)おやじ」には耳が痛い話ですが、わがままが出がちな家族だからこそ、日々、善い縁を繰り返す心の姿勢が大切なのだと、自戒(じかい)しています。
今月10日に「報恩会(ほうおんえ)」を迎える脇祖さまは、「人の気持ちをよくくんでものごとにあたったらなら、どんな人とでも円満におつきあいできる」といって、つねに人を思いやることを忘れず、「人さまを救うのは、まごころが第一」と語ったとおり、慈悲(じひ)に徹する姿勢を貫(つらぬ)きました。病(やまい)の問屋といわれるほどの病苦や、貧しい暮らしのなかで味わった悲しみから、「善い縁は、まごころが結ぶ」という真実を体験的に学ばれたのだと思います。
では、いま私たちのまわりで苦悩にあえぐ人の求めに、私たちはどう応(こた)えたらいいのでしょうか、――大事なご縁を見逃しているのかもしれません。
と、締めくくられた。
今年、会長先生は、「年頭法話」で斉家を強調されました。幼少年・青年を健全育成する拠点は、家庭。斉家で大きな役割を果たすのが親の姿勢である。斉家のポイントは、まず、親である私たちが「ご宝前を中心にした生活」「三つの実践」の基本を身に付けることとご指導いただきました。これは、下半期への精進の姿勢でもありますが、「妙荘厳王」の姿勢から、立場や体面にとらわれないで「柔軟」に子の進言を聞き入れ、「謙虚」な気持ちで仏道修行に励む姿を学び、私たちも出会うすべてのご縁が、何を教えているのかを「学び」、そのことで気づいた点を「省みる」ことですべてが善縁となるよう、三つの基本信行を繰り返し精進させて頂き、いま私たちのまわりで苦悩にあえぐ人の求めに、そのご縁から真理を通して何を学ぶのかを一緒に考え、乗り越えていく触れ合いを、心配行として取り組ませていただきましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『心の隙間を埋める』というテーマを、
○ 心のなかには鬼も仏も ○ 常精進を助ける言葉
の2段落でご解説いただいた。
まず、『心のなかには鬼も仏も』の段落では、
仏教では、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三つを「人の心を毒する根本的な煩悩(ぼんのう)」と教えています。何においても必要以上に貪(むさぼ)り、満足を知らない心、怒りの心、真実の道理がわからず、目先のことしか考えない心 ―― これらが嫉妬(しっと)や憎しみや不和を招いて、自分を苦しめるというのです。
「三毒」といわれるこうした煩悩は、人間ならだれでもあるもので、もちろん、釈尊(しゃくそん)にもあったのです。ただ、私たちと釈尊の違いは、欲望や怒りを制御(せいぎょ)できるかどうか、という点です。私たちは、欲や怒りをうまくコントロールできないがために、思わず軽はずみな行動や悪いことをして、よけいな苦しみを背負いこむのです。
そのようなとき、私たちは「つい魔が差して」といったりしますが、その「魔」は「人に害を与える鬼類(おにるい)」とか「人の心を迷わせ、乱し、修行を妨(さまた)げるもの」といわれます。
ただし、それは外部から私たちの心に侵入(しんにゅう)してくるものではありません。神や仏が自分の心の写し絵であるのと同じで、魔も鬼も、すべて自分の心のはたらきです。
ところが、幸いなことに、法華経(ほけきょう)の「陀羅尼品(だらにほん)」に「陀羅尼を得たならば、餓鬼(がき)のような鬼どもが人の弱点をさがしてつけ入ろうとしても、つけこむ隙(すき)が見いだせない」とあります。餓鬼とは貪欲の象徴ですから、あれも欲しい、これも欲しいと貪る心が起きかけても、「陀羅尼」を得れば、その心が暴れだす前に制御できるというのです。
それでは、心のなかの魔や鬼が暴れだす隙を与えない「陀羅尼」とはいったいなんでしょうか。また私たちも、その「陀羅尼」を得ることができるのでしょうか。
『常精進を助ける言葉』の段落では
「陀羅尼」について、本会では「あらゆる悪をとどめ、あらゆる善をすすめる力」「それを唱えれば仏の世界にまっすぐに入っていくことができる神秘的(しんぴてき)な言葉」と説明しています。もう少しわかりやすくいえば、「陀羅尼」とは、それを唱えれば、心のなかで動き回る貪りや怒りや自己中心の思いを抑(おさ)えて、自分のなかにある仏の心をはたらかせる力をもつ、呪文(じゅもん)のような言葉ということでしょう。
以前、武士道について書かれた『葉隠(はがくれ)』のなかの「跡見(あとみ)よ そわか」という言葉をご紹介しましたが、これは「忘れていることはないか」「もう一度、よく見てごらん」と、自分の行ないをふり返ることをうながす「陀羅尼」です。
「そわか」とは仏への呼びかけの言葉で、円満成就(じょうじゅ)するといった意味もありますから、この言葉が自分のなかの仏への呼びかけとなり、仏心(ぶっしん)に立ち返るスイッチになるのです。
ついカッと頭に血がのぼりそうになったときなどに、私は心のなかで「おんにこにこ はらたつまいぞや そわか」と唱えます。すると感情の波が静まって、後悔するような言動を慎(むさぼ)むことができるのです。
どれほど強い意志をもった人も、鬼や魔にたとえられる貪瞋痴(とんじんち)の誘惑にはなかなか勝てません。しかし、心に隙が生じそうなときに自己を省みる「陀羅尼」というスイッチがあれば、魔が動きだす前に隙間を埋めて、心を切り替えることができます。菩薩(ぼさつ)の道を歩もうと誓いながらも、迷ったり悩んだりすることの多い私たちにそのことを教えるのが「陀羅尼品」ではないかと私は受けとめています。
難しい言葉の意味や理屈がわからなくても、「陀羅尼」を唱えれば心願(しんがん)が成就するといった昔からの用いられ方を見ても、私たちをいつでも精進(しょうじん)の道へと引き戻し、元気を与えてくれる力がそこにあるということでしょう。
では、自分にとっての「陀羅尼」とは ―― それを考え、会得(えとく)するのもまた、心の隙間を埋める助けになるはずです。
と、締めくくられた。
仏教は「中道」の教えといわれます。「中道」とは一方にかたよらないということですが、それは「右にも左にもかたよらない、ちょうど真ん中」というような固定的な位置を指すものではなく、真理に合っていれば位置はどこでもいいという考え方です。この教えが身につくと、固定的なものの見方はなくなり真理に合った考え方が身につくといわれます。
そして「陀羅尼品」では、三毒といわれる煩悩に悩まされるのが凡夫であるが、その三毒をコントールできるのが陀羅尼であると説かれます。中道の教えのバランスと陀羅尼による感情のコントロールができると、感情の波が収まって、後悔するような言動を慎むことができる。心に隙間が生じそうなときに、自己を省みる「陀羅尼」というスイッチがあれば魔が動きだす前に隙間を埋めて、心を切り替えることができる。菩薩の道を歩もうと誓いながらも迷ったり、悩んだりすることの多い私たちにそのことを教えてくれるのが「陀羅尼品」である。私にとっての陀羅尼は、「善いことを 心をこめて くり返す」です。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『慈しみの眼をもって』というテーマを、
○ 「慈眼をもって衆生を視る」とは、○ 足元を照らす灯に
の2段落でご解説いただいた。
まず、『「慈眼をもって衆生を視る」とは』の段落では、
「慈眼(じげん)をもって衆生(しゅじょう)を視(み)る 福寿(ふくじゅ)の海無量(うみむりょう)なり」 ―― 法華経(ほけきょう)「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぽん)」の名句として知られる一節です。
慈悲(じひ)の眼(まなこ)で衆生を視れば無量の福が聚(あつ)まるというのですが、慈悲の眼で世間や人びとを見るとは、どのようなことを大切にする見方なのでしょうか。
六月号の本欄でご紹介した詩人の山尾三省(やまおさんせい)氏が、「観世音菩薩」という詩で、その答えともいえる仏の教えの真実をやさしく説き明かしています。作品の一部をご紹介しましょう。
「観世音菩薩 というのは/世界を流れている 深い慈愛心のことであり/わたくしの内にも流れている ひとつの/深い慈愛心のことであるが/(中略)/一人の人が ぼくに喜びを与えてくれるならば/その人は 観世音菩薩なのであり/一本の樹が ぼくに慰(なぐさ)めを与えてくれるならば/その樹は まごうかたなく観世音菩薩なのである/(中略)/わたしが人を責めることをしないならば/それが観世音菩薩であり/あなたがわたしを許してくださるならば/そこに聖(しょう)観世音菩薩は 現前(げんぜん)しておられる/観世音菩薩というのは/世界を流れている 深い慈悲心であり/あなたの内にも わたしの内にも流れている/ひとつの 深い慈悲心のことなのである」(『観音経の森を歩く』野草社刊)
一読しただけで、だれもが仏性(ぶっしょう)を自覚するようなすばらしい詩だと思います。「ほんとうに大事なことをわかってほしい」と願う作者の慈悲心が智慧(ちえ)となって、やさしい表現で教えの真実を伝えるこの作品が生まれたのでしょう。
「慈眼をもって衆生を視る」の意味するところを、この詩を手がかりに考えれば、だれのなかにも、観世音菩薩と同様の深い慈悲心が流れていると見ることです。そして、一人ひとり別々の生き方をしていても、ともに全体のなかの一人として自他一体の大きな「いのち」を生きており、互いにそのような尊(とうと)い命をいただいていると見ることです。それが、無量の福を呼ぶ慈(いつく)しみの眼といえるのです。
『足元を照らす灯に』の段落では
作家の立松和平(たてまつわへい)さんが、信仰の山として親しまれる栃木県の男体山(なんたいさん)に登ったときの体験を随筆(ずいひつ)に綴(つづ)っていました。
懐中電灯(かいちゅうでんとう)を持たないで山に入ったその日、立松さん一行は下山(げざん)が遅れて日没を迎え、山道を歩くのが困難になってきたそうです。足元はるかに中禅寺湖(ちゅうぜんじこ)があり、湖畔(こはん)には土産物店や宿の明かりが輝いていますが、山中(さんちゅう)の闇(やみ)は深くなるばかりです。そのとき、前方にかすかな光が見えました。それは、道の先で疲労のためにしゃがみこんでいた女性の持つ懐中電灯の小さな灯(あかり)でした。立松さんたちは女性のもとに歩み寄り、荷物を持ってあげます。そして、細く、小さな灯で足元を照らしながら一緒に山をくだったのです。
立松さんは、こう記します。「いっしょに歩いた私たちは、その婦人にとって観音で、その婦人は懐中電燈(でんとう)で足元を照らしてくれたので、私たちには観音ということになる。遠くの光は、どんなに光量(こうりょう)が豊かでも、なんの救いにもならない。そのかわり、どんな心細(こころぼそ)い光でもすぐ前にあれば、それは大いなる救いなのである」と。いたわりや思いやりという淡(あわ)い光のなかにこそ、菩薩が立ちあらわれるのです。
それは、観音さまがあらゆる時と場所に現れて救いの手立てを示すと教える、観音経(かんのんぎょう)の「普門示現(ふもんじげん)」の世界そのものです。そして、慈悲の極(きわ)みといわれる「如来寿量品(にゅらいじゅりょうほん)」の結びの一節、「何(なに)を以(もっ)てか衆生(しゅじょう)をして 無上道(むじょうどう)に入り 速(すみ)やかに仏身(ぶっしん)を成就(じょうじゅ)することを得(え)せしめんと」を、私たち一人ひとりが自分の願いとして人を思いやるならば、そこにおおぜいの菩薩が生まれて、みんなが幸せになれますよと、観音経は私たちに励ましと救いを与えてくれるのです。
と、締めくくられた。
先月号では「観音さまを念ずる」というご法話をいただき、自らの可能性を自覚することの大切さ、観音妙智の力を自覚し、自らその働きができるよう念ずることの大切さをご指導いただきました。
今月号では、菩薩の実践についてご指導くださいました。まず、「慈眼をもって衆生を視る」見方について山尾三省氏の詩から、四つの実践が説かれ、この詩を手がかりに、観世音菩薩と同様の慈悲心が自分にも流れていると自覚すること、そして、「足元を照らす灯に」の段落では、立松さんご自身の体験をとおして観音の働きについて、光にたとえられ、「遠くの光はどんなに光量が豊かでも、なんの救いにもならない、そのかわり、どんな心細い光でもすぐ前にあれば、それは大いなる救いとなり、それが観音の救いであると。そこで、天台宗の宗祖「最澄」の言葉「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」が思い出され、一隅を照らす人が観音さまと同じともいえると感じた。観音さまの「普門示現」の働き、苦しみ悩む人に寄り添い、自分にできる精いっぱいを尽くして、心配行をさせて頂く。
今月も、また、下半期に向けて、身近な人の足元を照らす灯になれるよう精進させて頂きましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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今月は、『 観音さまを念ずる 』というテーマを、
○ 自分の可能性を自覚する、○ すべての人を救いたい、という願いの2段落でご解説いただいた。
まず、『自分の可能性を自覚する』の段落では、
法華経(ほけきょう)の「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぽん)」は、「観音経(かんのんきょう)」とも呼ばれて、たくさんの人に親しまれています。そのわけは、私たちが苦悩するとき、一心に観音さまを念ずれば、観音さまはすぐにその声を聞き届け、救ってくださる、という教えに勇気をもらい、観音さまを信じて慕(した)う人が多いからでありましょう。ただ、それだけを聞くと、神仏にご利益(りやく)を願う信仰のようですが、観音さまを念ずることが仏の教えと真剣に向きあうきっかけになるのだとしたら、それも信仰の入り口として尊重すべきものだと思います。
とはいえ、私は、観音経は単に念ずれば救われる、助かると教えるものではないと受けとめています。なぜなら、「観世音菩薩普門品」が法華経のなかの教えだからです。観音経には、法華経の精神がこめられているからです。
その一つが、自らの可能性を自覚することの大切さです。「観音妙智力(みょうちりき)」という言葉があります。私たちも毎日、読経供養(どきょうくよう)の際に「観音妙智(みょうち)の力(ちから) 能(よ)く世間(せけん)の苦(く)を救(すく)う」と読誦(どくじゅ)するこの言葉の意味あいを、開祖さまは「苦難に会ったときにはねかえす内面的な力、かえってその苦難から栄養をとって成長する不可思議(ふかしぎ)な心の力」と説明しています。
苦しみの底から立ち上がり、その苦を糧(かて)に成長できる底力(そこじから)が私たちにはあって、それが「観音妙智力」だというのです。詩人の山尾三省(やまおさんせい)氏は、私たちに内在する根源(こんげん)の生命力を念ずるのが、観音の力を念ずることだといいます。
つまり、観音さまとは自分自身のことにほかならず、そのような自己の可能性を信じ、内なる観音の力を信じて一心に念じるとき、私たちの心には安心感とともに気力が湧(わ)いてくる ―― それが、苦から救われるということなのです。
『すべての人を救いたい、という願い』の段落では
私たちは、たとえば苦しみのなかで絶望しかけたとき、ふと「永遠につづく苦しみはない」と気づいて肚(はら)が据(す)わったり、孤独感にさいなまれて死を念(おも)う衝動(しょうどう)にかられたときに、愛情をもって見守ってくれた人を思いだして生きる力を得たりすることがあります。それは、いわば諸行無常(しょぎょうむじょう)や諸法無我(しょほうむが)などの真理に目ざめ、新たな人生が開かれた瞬間です。たとえ、そのときそれが仏の教えとわからなくても、自分に具(そな)わる智慧(ちえ)の力(妙智力)によって、自ら立ち上がることができたということに間違いはないでしょう。
ほんとうに苦しいとき、すがるような思いで「観音さま、助けてください」と念ずる人があるかもしれません。しかし、それでもいいのです。現世利益(げんせりやく)を願う祈りであっても、観音さまを一心に念ずる素直な心と、内なる観音とが一つになったとき、自分本来の力がはたらくのですから。
その意味では、「方便即真実(ほうべんそくしんじつ)」という言葉がありますが、観音さまの力という方便をとおして、「仏性(ぶっしょう)が自覚できればだれもが必ず救われる、自由自在な世界が開ける」という真実を教えているのが観音経といえるのです。
また観音経には、観世音菩薩がさまざまな手立てをもって人びとを苦難から救うことが繰り返し説かれていますが、それもまた、「すべての人を救いたい」という観音さまと同じ心が私たちにもあることに気づかせる、一つの方便ではないでしょうか。そして、観音さまを念ずることで、あたかも千手(せんじゅ)観音のように、「千の手を差し伸べてでも人びとに幸せや安らぎを与えたい」と願う心があることに気づいたならば、こんどは自分が一人の菩薩となって実践にふみだす。その大切さを、観音経は説き示しているのです。
地蔵(じぞう)菩薩に常不軽(じょうふきょう)菩薩……と、観音さまに限らず、自分がめざす菩薩としての歩み方は人それぞれでしょうが、次号ではその菩薩の実践についてふれたいと思います。
と、締めくくられた。
法華経は「自覚の教え」といわれています。方便品で、仏さまが悟られた真理は「諸法実相」と表明され、それを人間に当てはめると、どのような人もその奥には仏性(仏になれる可能性)を具えているという意味であり、方便品から授学無学人記品までは、開三顕一の法門として、仏性の自覚を促されています。そして、法師品で“法師の自覚”に立ち、仏さまの衆生教化のお手伝いをする決定をし、五種法師や安楽行などの行法を通じて、本尊観に至ります。本仏の願いは一切衆生の救済でありますから、人さまの悩み、苦しみ、迷いから救い出す実践が究極の菩薩行であり、流通分(23番以降)に登場する菩薩さま方はその菩薩行を具体的に実践された私たちのお手本です。そして、お手本としての代表が観世音菩薩さまで、その教化力の偉大さで、観音信仰とまで慕われるほどであります。特に、「すべての人を救いたい」との願いから「普門示現」を実践され、その時のお心は「大悲代受苦」のお心でした、我々はそのお徳を賛嘆するとともに、それをお手本に、「観音妙智の力」を発揮できるよう観音さまを念じて、信者さんの救護に取り組ませて頂きましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『ていねいに暮らす』というテーマを、
○ 分別をしない、○ 他者を思うことで
の2段落でご解説いただいた。
まず、『分別をしない』の段落では、
私たちは、朝起きてから寝るまでのあいだ、その行動の多くを、知らずしらずのうちに「大事なことと、そうでないこと」に分けて暮らしているのではないでしょうか。ご供養(くよう)はおろそかにできないけれど、家族とのあいさつはいいかげんになりがち・・・・・・といった具合に。
「一大事(いちだいじ)と申すは、今日ただいまの心なり」と喝破(かっぱ)したのは、正受(しょうじゅ)老人の名で知られる禅僧の道鏡慧端(どうきょうえたん)ですが、朝起きて家族にあいさつをすることも、顔を洗うことも、そのあとでご供養をし、仕事に出かけて商談することも、一つ一つどれも「一大事」なのです。その行ないに心を注ぎ、ていねいにとりくむことに変わりはないということです。
ところが、それがなかなかできないのは、単に忙しいからというだけではなくて、私たちがものごとを「分別(ふんべつ)」しているからです。ほんとうはどのようなことにも意義や価値があるのに、「これは念入りに」と注意を払うものがある一方で、「あれは気を抜いても大丈夫」と自分に都合のいい判断をしたものについては、心のこもらない言葉や行動となってあらわれたりするのではないでしょうか。
以前、「花の美しさに序列(じょれつ)はない」という言葉を教えていただいたことがありますが、表面的な価値や好き嫌いを離れて見れば、どれもこれも大事なこと、大切なものとして受けとめていけるということでしょう。
そもそも正受老人の「正受」は、「自分の考えを離れて一つのことに集中する」ことを意味する「サマーディ」(三昧(さんまい))の漢訳ですから、「今日ただいま」の行動に集中するには、自分の都合をいったん忘れることが大切なのです。
『他者を思うことで』の段落では
また、別の角度でていねいな暮らし方について考えてみると、たとえばわが家では、冬期などに給湯器(きゅうとうき)のスイッチを入れてお湯が出てくるまでのあいだ、蛇口(じゃぐち)から出てくる冷たい水を流れるがままにせず、別の容器に汲み置いて加湿器などで使います。少しの水も無駄(むだ)にしないこうした工夫も、ていねいに暮らすことに通じることの一つかもしれません。これは、水にかぎらず、ふだん気にも留(と)めないことに少し心遣(こころづか)いを加えると、それがより生かされるということにも通じます。
あるいは、短歌や俳句などにふれることも、日常の一瞬に目を向け、生活の周辺に心を留める訓練になりそうです。「若葉さすころはいづこの山見ても何の木見ても麗(うるわ)しきかな」(橘暁覧(たちばなのあけみ))。いまの季節をうつす明るい歌ですが、このように四季の彩(いろど)りや変化に目を向けることが、平凡な暮らしのなかにある幸せをかみしめることにもつながって、いまこのときを愛(いと)おしく思い、大切にする心を育てます。
ただ、それでもまだ漠然(ばくぜん)と「ていねいに暮らそう」と考えるだけでは、いままでの生活習慣に流されがちな私たちです。その場その場の所作や行動を、おのずからていねいなものにするにはどうすればいいのでしょうか。
法華経(ほけきょう)の「妙音菩薩品(みょうおんぼさっぽん)」には、妙音菩薩が数多くの三昧を得たことが示されています。その三昧の根底には、どれにも菩薩の願いがあります。「縁のある人だけではなく、縁のない人まで救おう」「松明(たいまつ)が周囲を照らすように、智慧(ちえ)の光で人びとを明るく照らそう」と精神を集中する、そういう三昧を得たというのです。つまり、近くにいるだれかの役に立ちたい、遠い国のだれかを喜ばせたいといった願いがあれば、洗顔一つにも心をこめるような、ていねいな生き方をせずにはいられなくなるということでしょう。
何を見ても「麗しきかな」と受けとれる情感とともに、いつでも幸福感あふれる日々がそこにあります。
と、締めくくられた。
私たちは知らずしらずのうちに「大事なことと、そうでないこと」を分別しています。それは自分中心なものの見方・考え方が根底にあるからでしょう。そこで、会長先生は今月、一日の行動の一つ一つのどれにも心を注ぎ、ていねいに取り組み、「今日ただいま」の行動に集中する、そのためには、自分の都合をいったん忘れることが大切とご指導くださっています。
その自己都合を忘れるためには「他者を思うこと」に集中する(三昧を得る)ことをお示しいただきました。
「妙音菩薩品」には、妙音菩薩が数多くの三昧を得たことが示されていますが、その三昧の根底には、どれにも菩薩の願い(「近くにいるだれかの役に立ちたい、遠い国のだれかを喜ばせたい」)があります。その願いが精神を集中させ、洗顔一つにも心をこめるようなていねいな生き方ができるようになる。そして、何を見ても「麗しきかな」と受けとれる情感が身につき、いつでも幸福感あふれる日々がおくれる、とご指導くださいました。その理想の境地に向かって、一歩でも近づけるよう精進させていただきましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『いまをともに生きる』というテーマを、
○ 実践によって仏になる、 ○ 春風となって
の2段落でご解説いただいた。
まず、『実践によって仏になる』の段落では、
まもなく、釈尊(ぼさつ)がお生まれになった4月8日の降誕会を迎えます。仏伝によれば、釈尊は誕生してすぐに「天上天下唯我独尊(てんちょうてんげゆいがどくそん)」と宣言されたといわれます。これは、釈尊を讃える伝説の一つとされますが、私は仏教の本質をこれ以上ない表現で示したものと受けとめています。
この「誕生偈(たんじょうげ)」を、ある方は「われこそは、この世にたぐいなきものである」と表現しています。釈尊だけでなく、人はだれもが生まれた瞬間から、それぞれ他と比べようのない尊い存在だということです。そして、その自らの命の尊さを自覚して生きることを教えるのが仏教ですから、「誕生偈」はそうした仏教の核心を釈尊降誕の物語にことよせて伝えているといえるのです。
また、仏教は「人が人を救う教え」ですが、その点から見ても「誕生偈」の意義には味わい深いものがあります。
人間釈尊が真理を悟り、その教えをもとに私たちが救われて、救われた人がまた身近で苦しむ人を救う ―― 釈尊時代からつづく、人が人を救い・救われるという仏教の歴史に照らしても、人間のすばらしさを思わずにいられません。
ただ、一つ大切なことは、釈尊が「生まれによって聖者となるのではない。行為によって聖者なのである」といわれるように、人間の尊さは日ごろの行ないによって磨きだされるということです。道元禅師(どうげんぜんじ)は「修証一等(しゅしょういっとう)」という言葉で、悟るための手段が修行ではなくて、精進(しょうじん)するその姿が悟りの証だといっています。つまり、仏の教えを暮らしに生かす日々の精進は私たちが仏であることの証(あかし)で、その実践によって慈悲(じひ)の心を深めていくのが仏道なのです。
『春風となって』の段落では
法華経(ほけきょう)の「薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)」は、仏の教えを身をもって実践することの大切さと、その姿が多くの人に「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の心」を発(おこ)さしめることを示しています。平たくいえば、「まず人さま」と損得勘定(そんとくかんじょう)を超えてわが身を使い、心と言葉を尽くして人を思いやるとき、その実践は自分の幸せや喜びとともに、みんなの救いにつながる光明(こうみょう)になるということです。
これをより具体的に、「仏道修行は人びとに奉仕すること」と明言する人もいます。シャーンティデーヴァいうインド僧は、慈悲の心を行動で示すことが精進であり、仏教にほかならないといいます。そのことについて中村元(なかむらはじめ)先生は、「宗教の教えを知っているというだけでは、なんの意味もない。われわれの身体をもってする行為のどこかに具現(ぐげん)されなければなりません」と簡潔に述べています。
教えを知っていることに意味がないわけではありませんが、困っている人にとっては、具体的に手を差し伸べてくれる行為は何よりの救いになるはずです。
さらに、そのあたたかな思いやりを受けた喜びが、自他の命の尊さに目ざめる契機になる人もいるでしょう。一つの慈悲の実践が、人の心を真実に向かわせる手立てになるのです。そうした「慈悲の方便(ほうべん)」こそ、釈尊の願いに通じる布教伝道の原点なのかもしれません。コロナ禍のいまは、ことのほかそうした慈悲心が求められているのです。
ただ、そのためには、できるだけ自身が慎ましく生きることが大事だと、先のインド僧はいいます。その意味では、できるだけ少ないもので満足し、何ごとにも感謝するというシンプルな生き方を忘れてはならないと思います。
そのうえで、「願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや」(佐佐木信綱(ささきのぶつな))という歌のように、いまをともに生きるすべての人の苦悩を思い、春風のように軽やかに慈悲の心を届けられる日を待ちたいと思うのです。
と、締めくくられた。
今月は釈尊降誕月ということで「誕生偈」を通して、自らの命の尊さを自覚して生きることを教えるのが仏教であり、その生き方は成仏に向かって精進することをお示しいただいています。
道元禅師は「修証一等」という言葉で、仏の教えを暮らしに生かす日々の精進は私たちが仏であることの証で、その実践によって慈悲の心を深めていくのが仏道であるといっておられます。そして、会長先生より「薬王菩薩本事品」を通して、身をもって実践することの大切さと、その姿を通して悟りを求める心を発さしめることをお示しいただきました。
いよいよこの品から法華経の実践編に入り、多くの菩薩たちが登場して、私たちに実践の手本を示してくださいます。
この品の要旨として、薬王菩薩の前世の姿「一切衆生憙見菩薩(いっさい
しゅじょうきけんぼさつ)」の修行のあり方を通して、
〇 人間にとって自己犠牲ほど高貴な精神はない、
〇 実行こそが教えに対する最高の供養であることを教えられています。
困っている人にとっては、具体的に手を差し伸べてくれる行為が何よりの救いになる、一つの慈悲の実践が、人の心を真実に向かわせる手立てとなる、そうした「慈悲の方便」こそ、釈尊の願いに通じる布教伝道の原点とご指導いただきました。コロナ禍を乗り越えて、一日も早く直接対面して、信者さんの心配行ができることを願って今月も精進させていただきましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『信じて任せる心』というテーマを、
○ 仏の立場で見る、○ 釈尊の信託と創立の願い
の2段落でご解説いただいた。
まず、『仏の立場で見る』の段落では、
「出替(でがわり)の笑いにふくむなみだかな」(松岡青蘿(まつおかせいら))という句があります。「出替(り)」とは、いまでいう人事異動のようなものですが、そこで生まれる悲喜(ひき)こもごもの様子は、江戸の昔も現代もあまり変わりがないようです。
春先になると、企業など多くの組織で人事が話題になります。もちろん本会にも、時期は違うものの定期的に人事異動がありますが、本会では、行政機関に見られるような人事委員会を設けて行なっています。なぜなら、限られた人、たとえば私なら私が一人で人事を担当したりすると、そこに私情が入りこみかねないからです。
私たちは、だれもが凡夫(ぼんぷ)の心をもっています。人の好き嫌いに左右されたり、噂や偏見に基づくレッテルを貼って人を評価したりしがちです。しかし、それでは仏の立場で人を見ることにはなりません。「悉有仏性(しつうぶっしょう)」―― 生きとし生けるものはみな、仏と同じ本質を具(そな)えていると学びながら、凡夫の視点にとどまってしまうのは、信心がそこにまで至っていないということです。
また、もし私たちが、何かしらのレッテルを貼ってだれかを見ているとしたら、そのレッテルと同じものが自分にもあると省みることも大切です。「あの人は卑怯者(ひきょうもの)だ」と見る自分にも、卑怯な一面があるということです。
法華経(ほけきょう)の「嘱累品(ぞくるいほん)」では、「みんなが幸せになれるよう、どうかみなさんに法華経の教えを伝えてください。よろしく頼みますよ」と仏が菩薩(ぼさつ)に託しますが、人事に限らず、どのようなときも、仏が菩薩を見るように人を見て信頼できたら、どれほど心が安らぐことでしょう。信じて任せきる仏のように、人を見ることができる、信じられるというのは、それだけで大きな功徳(くどく)をいただいているのです。
『釈尊の信託と創立の願い』の段落では
高齢者を狙った詐欺(さぎ)犯罪などが世間を騒がせる時代ですから、「悉有仏性だから」といって、だれかれなく信用できるわけではないかもしれません。その意味では、せめて「自分」は嘘をついたり人を誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)したりしないで、人びととたくさんの「信」をはぐくんでいきたいものです。「信」という字は「人(ひと)」と「言(こと)」の組みあわせでできていますが、人の言葉は「心のあらわれ」なので、「マコトを意味する」と、私は学びました。言葉の「言」は「命」のことで、「宇宙、神、仏の命が言葉となってあらわれている」ともあり、そのような言葉を人と交わすのは、お互いに相手を信じているからだといいます。
誠意をもって言葉を発することは、人を信じることや、信じられる人になることにもつながる大切なことです。いかにも当たり前のことですが、それがなかなかできない私たちであると、自戒(じかい)をこめて思わせられます。
信じて任せるといえば、私たちは日々、「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の題目(だいもく)を唱えています。これは、「すべての人が仏となり、幸せになれることを信じて、神仏のはからいにお任せします」と誓っていることにほかなりません。浄土宗の藤井実応(ふじいじつおう)師は、「まかせたる身は安らかで力強い。きょうもアミダの中にともどもに、明るく生きてゆこう」といわれていますが、題目の意味あいに藤井師のこの言葉を重ねると、どのような時代や環境にあっても「明るく生きていこう」という気概(きがい)が湧(わ)いてくるのではないでしょうか。
また本会では、創立以来、「入会者即布教者」を信条としてきました。それも、みんなの幸せを願う釈尊(しゃくそん)からの信託(しんたく)であり、会員のみなさんなら大丈夫という開祖さまの信任によるものです。まずは、前向きに心をととのえ、神仏や人との絆(きずな)を結ぶ「信」を深めてまいりましょう。
と、締めくくられた。
今月は、人事異動にことよせて、人の評価のあり方を、凡夫の“人の好き嫌いや、噂や偏見に基づくもの”ではなく、「悉有仏性」という、仏の立場で人を見れる信心を身に付けることの大切さと、「悉有仏性」だからといって、だれかれなく信用するということではなく、せめて「自分」は嘘をついたり、人を誹謗中傷したりしないで、たくさんの「信」をはぐくむことの精進の大切さを教えて頂きました。「嘱累品」の教えから「すべての人が仏となり、幸せになっていただく」ための実践を釈尊より信託され、開祖さまからも、みなさんなら大丈夫と信任していただいています。
創立記念月を迎え、83年前に開祖さまによって、「私が教団を創立したのは、現実に人を救い、世を立て直そうという熱意のゆえであり、そのためには法華経にこめられた真の仏教精神をひろめるほかにない」という確信を持って教団が創立されました。私たち一人一人がその開祖さまの願いと信任、釈尊の信託にお応えすべく、しっかりと精進させて頂きましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『人さまに喜ばれる人に』というテーマを、
○ 「神力」とは何か、 ○ 人に喜ばれることが「うれしい」
の2段落でご解説いただいた。
まず、『「神力」とは何か』の段落では、
人知(じんち)を超えた不思議な力のことを、よく「神通力(じんづうりき)」とか「神力(じんりき)」といいますが、私たちは、それを「自分には身につけられない特別な能力だ」と思っています。
たしかに、仏教の経典にも「あらゆるものごとを見とおす」とか「全身の毛穴から美しい光を放って世を照らす」といった神秘的なことが神力として説かれますから、そのように思うのもうなずけます。しかし、私たちにできないことを、釈尊(しゃくそん)は説かれないと思うのです。だとすれば、経典にある神通力とか神力とは何を意味するのでしょう。
私は、人間にとって最大の神通力は「心」をもっていること、と受けとめています。言葉を換えれば、人間の「心」の力やはたらきが神通力だということです。考えてみると、心があるからこそ、私たちは人の気持ちがわかります。人が何を求めているのかも理解できます。もちろん、釈尊が悟られた真理を認識できるのも、心があるからです。
開祖さまは「大乗の教えによって真の意味の智慧(ちえ)をもつようになれば、それで神通力を得たのと同然」といっていますから、特別な能力が神通力というよりも、人を思いやったりする日ごろの心のはたらきが、神力といえるほどの力を発揮するということです。たとえば、仏の教えを知り、寄り添ってくれる仲間の支えで「生きながらにして生まれ変わった」という人が本会にはたくさんいますが、ときに不思議としかいいようのない結果や心の転換が起きるのも、私たちの心があらゆる可能性に満ちているからです。
殺人鬼のアングリマーラ(鴦掘魔(おうくつま))が、釈尊のいたわりとお導きによってすぐれた仏弟子となった故事(こじ)も、その証の一つでしょう。「神力」とは、一つには人を思う「まごころ」であり、そのはたらきが生む力をいうのです。
『人に喜ばれることが「うれしい」』の段落では
「神力」について、いま述べたような話をしていたとき、「佼成会は、まごころという『神力』を発揮する人でいっぱいですね」といった人がいましたが、ほんとうにそのとおりだと思います。なぜなら、法華経(ほけきょう)の「如来神力品(にょらいじんりきほん)」によると、神力は人びとを喜ばせるためにあらわすものだからです。「衆生(しゅじょう)を悦ばしめんが為(ため)の故(ゆえ)に 無量(むりょう)の神力を現じたもう」とありますから、私たちが人に明るく、やさしく、あたたかく接することを大切にして、人さまのために心をくだき、思いやりを実践に移すことで少しでも喜んでいただけたら、それが神力の発揮にほかならないのです。
ところで、アンパンマンなどの漫画でおなじみのやなせたかしさんが「いちばんの/よろこびは/ほかのひとを/よろこばせること」(『もうひとつのアンパンマン物語』PHP研究所刊)と記しています。そのうえで、人は人を喜ばせることがいちばんうれしい、人生で最大の楽しみは人を喜ばせることといわれ、漫画家になったのも「全力をつくしてひとをよろこばせたかった」からと綴っておられるのです。それを読んだとき、私は「この方は漫画をとおして人を喜ばせる菩薩(ぼさつ)さまなのだ」と感じ入ると同時に、人に喜ばれる生き方を心がけていれば、だれもが自分のいる場所で菩薩になれることを教えていただく思いがしました。
以前、たとえ寝たきりの人でも、その笑顔や感謝の言葉で人を喜ばせることができるとお話ししましたが、それも大きな神力であり、菩薩のはたらきです。
そうして法を身で説く人は、「無量の菩薩をして 畢竟(ひっきょう)して一乗(いちじょう)に住せしめん」と「如来神力品」は結んでいます。私たちは、みんなが仲よく生きる世界を築く一人ひとりなのです。いつでもまごころをもって、人さまに喜ばれることを喜びとする人でいっぱいの本会でありたいと思います。
と、締めくくられた。
1月号では、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の合掌、礼拝の姿勢を学び、「善いことを、心をこめて、繰り返す」実践の大切さを教えて頂きました。
今月は「神力品」を通して「神力」とは、人を思う「まごころ」であり、そのはたらきが生む力とお示しいただきました。「神力」は人々を喜ばせるためにあらわすもので、私たちが人に明るく、やさしく、あたたかく接することを大切にして、人さまのために心をくだき、思いやりを実践に移すことで少しでも喜んでもらうことの重要性をご指導いただきました。
教会が、そのような「神力」をあらわす人でいっぱいになるように、その人たち(菩薩)が育つ苗代(なわしろ)となれるよう、お互いを合掌、礼拝し、まず自らが喜びをもって今年も精進いたしましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『常不軽菩薩のように』というテーマを、
○合掌・礼拝の精神を体現する、○「常不軽菩薩品」と「雨ニモマケズ」
の2段落でご解説いただいた。
まず、『合掌・礼拝の精神を体現する』の段落では、
新年、明けましておめでとうございます。
本年もまた「善(よ)いこと」を繰り返し行なって、お互いさま美しく豊かな一年にしていきたいものです。そこで、あらためて「善いこと」とは何かについて考えてみましょう。
今年「降誕(ごうたん)八百年」をお迎えになる日蓮聖人(にちれんしょうにん)は、「仏教の肝心は法華経で、法華経の修行を説いたのは不軽品(ふきょうぼん)である。そのなかで、不軽菩薩が人を敬(うやま)われたのはどういう理由からかをよくよく考えてみなさい。釈尊の本懐(ほんかい)(本来の願い)は、人の道――行動や態度を教えることにあったということである」(崇峻天皇御書(すしゅんてんのうごしょ))といっておられます。
そうすると「常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさっぽん)」には、仏の教えを習学する私たちにとって生き方の基本となる、日常生活における「善いこと」が示されていると受けとめてよさそうです。
常不軽菩薩は、みなさんご存じのとおり、出会う人のだれに対しても合掌・礼拝(がっしょう・らいはい)し、「私はあなた方を敬います。決して軽んじません。あなた方は、菩薩の道を行じて必ず仏になる方々だからです」といって賛嘆しました。しかも、そのことによってどんなにひどい仕打ちを受けても、人を見下げたり、怒りや憎しみを抱いたりしないで耐え忍び、罵声(ばせい)や暴力から身を遠ざけながら礼拝行に徹したのです。
「常不軽菩薩品」では、仏性(ぶっしょう)の自覚と菩薩行の実践を中心とする教えが説かれ、その合掌・礼拝の姿勢は仏教を信仰する者のお手本といえます。ただ、よくよく常不軽菩薩のありようを見てみると、合掌や礼拝の「かたち」にとらわれることなく、経文にある「但礼拝(ただらいはい)を行ず」の一語にこめられた精神をかみしめ、味わい、血肉として行動すること、それが、おのずと「善いこと」につながると思うのです。
『「常不軽菩薩品」と「雨ニモマケズ」』の段落では
当たり前のことですが、私たちは太陽や水や空気がなければ生きていけません。大きくとらえれば、そうしたものへの感謝は、私たちとって大切な礼拝行です。天気に文句をいわないのも礼拝の一つであり、水を大切に使い、ものを無駄にしないというのも合掌の一つのかたちでしょう。人に不平不満や愚痴をこぼさないのも、悪口や怒りをぶつけないのも合掌・礼拝の実践ですし、それは相手の仏性を信じて敬う、人間としてのつとめともいえます。
つまり、身近な行動や態度や言葉の一つ一つが、どれも合掌・礼拝を身であらわす行だということです。そして、そのことをとおして、私たちは自分の仏性を自覚し、また相手にも、みずからの仏性を自覚せしめているのです。
童話作家として知られる宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の一節「ミンナニデクノボーウトヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」は、常不軽菩薩の影響を受けた賢治の願いと生き方をあらわしているといわれます。そのようなことから、この詩をあらためて「常不軽菩薩品」に重ねる気持ちで読んでみたところ、私はこれまで以上に感銘を受けました。なぜかといえば、この詩は、法華経の信仰に生きた賢治の言葉でやさしく翻訳された「常不軽菩薩品」そのもので、法華経に縁のない人が読んでも、常不軽菩薩のような生き方――菩薩としての行動や態度が、よくわかると感じたからです。
「慾(よく)ハナク/決シテ瞋(いか)ラズ」はいわずもがなですが、「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ」は「まず人さま」の姿勢を示し、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」は、人間の力ではどうすることもできない苦難と向きあう人にそっと寄り添う、慈悲(じひ)の祈りにほかなりません。
みなさんも何かの機会にぜひ、この詩をじっくりと味わってみてはいかがでしょう。
と、締めくくられた。
年頭にあたり、今年の修行精進の心構えをいただきました。ご本仏のおはからいで、今月号は、ちょうど年頭のご法話にあたり、そのご解説が、「常不軽菩薩品」ということが意義深く思います。
ご法話の冒頭、修行の三要素(授記品)「善いことを、心をこめて、繰り返す」をお示しいただき、「善いこと」とは、出会う人の「仏性」を礼拝することとお示しいただきました。
このご指導は、昭和20年のご神示にある会の行法観が、私たちの基本的な行法観であることを再確認することと受けとめ、今年の修行目標として、身近な行動や態度や言葉の一つひとつを戒め、しっかり精進させて頂くことを誓願させていただきましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡
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