令和2年8月度 教会長のお話

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     令和2年8月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、

    文末に感じたことを書かせていただきます。

     

     今月は、『むだなものはない』 というテーマを、

     ○ 「仏に帰る」ための精進、○ 自分のことのように 

     の2段落でご解説いただいた。

     

     まず、『「仏に帰る」ための精進』の段落では、

     

     先日、ある方から「仏になるためには、どんな実践や工夫をすればいいのでしょうか」と尋ねられました。仏教を「仏になるための教え」と説明することがあるので、そのためには何をしたらいいのか、という問いかけです。

     しかし、法華経の「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」をよく味わうと、どうやら私たちは、仏になるために精進するわけではないようです。そこで、私の理解の範囲でこうお話ししました。

     「仏になるというのは、『悟りを得る』ことを指すのかもしれませんが、その意味でいえば、私たちはすでに悟っている、と教えられてあります。ですから、仏になるために修行を、工夫をするというよりも、悟ったあとの精進をしている、それがいまの私たちの日常生活といえるかもしれません」と。ではなぜ、精進をつづけるのかといえば、私たちがときどき自分の本質を忘れてしまうからです。悟っている「ほんとうの自分」に帰るための精進、それが日常の信仰生活なのです。

     いろいろな悩みや苦しみに出合う人生ですが、私たちはすでに悟っているのですから、その自分(自己)を信じ、また人さま(他己(たこ))を信じて、ともに精進することによって、この世界がそのまま「寂光土(じゃっこうど)」となることを教えていただいているのです。そのような仏の教えと出会い、命の尊さを自覚させていただけばこそ、文字どおり有り難い日々をすごせるのですが、残念なことにその幸せな自分を、私たちはときどき忘れては、苦しんでいるのです。

     

     『自分のことのように』の段落では

     

     ところで「如来寿量品」には、「如来の演(の)ぶる所の経典は、皆(みな)衆生を度脱(どだつ)せんが為なり」(仏の教えはすべて、人びとを迷いの世界から救うためのものです)とあります。

     度脱とか迷いの世界から救うというと難しい印象ですが、要するに、いつでも心から、幸せだ、うれしい、楽しいといえる人間になるということです。そして私たちは、自分の本質を忘れなければ、その幸せを実感できるのです。

     そこで、仏さまはさまざまなかたちで、あるいはものごとをとおして、私たちが迷いの世界から離れるヒントを与えてくれています。万億(まんのく)の方便(ほうべん)と経文にあるように、聖人や賢人(けんじん)の教えだけでなく、いいことも悪いことも含めたこの世のあらゆるできごとが、「ほんとうの自分」に帰って幸せを味わうためのヒント、縁になるということです。

     人によっては、ケガや病気によってほんとうの自分に気づくかもしれませんし、人の痛みが理解できるようになって初めて、慈悲(じひ)の心が呼び覚まされる人があるかもしれません。また、人の幸せを見てわがことのようにうれしくなったり、感動の涙がこぼれたりしたら、それは自分の仏性が現れているからでしょう。

     仏は、すべての人が救われるように、幸せになるようにと願われていますが、私たちが人の悲しみや喜びを自分のこととして受けとめていくと、その仏の願いが自分の心に根づいていることに思い至るのです。

     新型コロナウイルスの感染拡大など、世界に広がる現象も、私たち一人ひとりにいろいろなことを教えてくれます。私たちが、自分のこととして受けとめ、学べば、この世にむだなものごとは何一つなく、その一つ一つが「ほんとうの自分」、すなわち仏に帰る縁となるのです。

     余談ですが、遠い国の人のことを自分に重ねて思い、世界じゅうの人の幸せを祈る人たちは、みんな願いを一つにする仲間、いわば世界サンガの一員といえます。

     自他の仏性を信じる私たちの「信心」、つまり信仰が、世界にほんとうの幸せを広げる原点となるでしょう。

     

     (*他己(たこ)):他の人やいっさいの存在のことーーー

             自他一如と見れば、自分以外のすべてが「自己」と

             一体の「他己」といえる

     

    と、締めくくられた。

     

     今月は、「むだなものはない」というテーマで、「如来寿量品」を背景に解説をいただきました。

     冒頭、寿量品をよく味わうと、「仏になるために精進するのではなく、悟ったあとの精進をしている」と教えていただきました。

     「法華経」は自覚の教えといわれます、迹門では、開三顕一を通して法師の自覚に立つことを促され、本門に入った「従地涌出品」では本化の菩薩としての自覚(四大菩薩の誓願)に立って、布教伝道することをお示しくださいました。

     そして、「寿量品」の「良医の譬え」で、愚痴の心により、誤って毒薬を飲んでしまい本心を失った子供が、本仏の慈悲により、救われていた自分に気づき、すでに救われていた自分を思い出し、精進を重ねていく(良薬を飲む)、つまり「三つの基本信行」を実践する決定をさせていただくことを教えて頂きました。

     ともすると私たちはすぐに、「いくら頑張ってもダメな自分」とか、「いくら心配してもわかってくれない相手」と思い、挫折しそうになりますが、そうではなく、「仏の慈悲を備えた自分、本当は幸せになりたいと思っている相手」双方の本質(仏性)を信じるために精進をする、と、見方をきりかえ、布教伝道の再開に向け心構えとさせていただきたい。

                                  合掌

     

                                                                   立正佼成会 姫路教会

                                   たかとし

                              教会長 吉 田 高 聡

     

     

     

     



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