仏教研究会

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    11月5日姫路教会では、12名の政治関係者が参加して仏教研究会が開催されました。吉田教会長の挨拶、2名の参加者代表の挨拶に続き、天台宗別格本山 書写山圓教寺長吏探題 大樹孝啓大僧正より政治と宗教について詳しく御講演をいただきました。最後に大樹孝啓大僧正より助言を頂きながら、参加者の感想発表がありました。                                                                                                                                    合掌

    文責:M.O

    講演の内容はつぎのようでした。

    前回科学者も宗教心がなければならないと申しましたが、

    お釈迦さまは二千五百年前に今の科学者が苦労して発見したことをすでに発見されていたことに素晴らしさを感じ敬服せざるを得ません。年間難行苦行して山を下りられ、七日間 菩提樹の下で瞑想に耽って悟られました。その間毎日太陽が昇り、沈むといった自然現象、宇宙というものを対視されて、この宇宙に何か素晴らしい力を持ったものがある。宇宙の仏さまということを体得、感得されました。自分もここで死ぬといような苦行もやってきたけれども、今なおこうして生きているのは宇宙の生命、仏さまの命を今貰っているからではないか。素晴らしい智慧が浮かんできたことを悟られて、世のため人のために尽くそうというお気持ちになられました。

     

    仏教というのはお釈迦さまで始まって、お釈迦さまは四門出遊と言って 王子であったお釈迦さまはお城の門を出て人が病気で苦しんでいるのを見たり、死体が運ばれているのを見たり、虫や小鳥の生きざまを見て生存競争を知ったり、当時インドでは沢山の人たちが仙人になると言っていろんな場所で瞑想にふけっている様子を見たりして、世の中とは大変なものだなあ、大勢の人達は皆幸せだと思っていたのに苦しんで悩んでいるのを見て、何とかして世の中の人が皆幸せになる方法はないものかと悩まれて、城を抜け出して年間難行苦行されました。目的は、ただ自分の悟りを開くことだけに修行をするのではなく、『庶民の幸せのために』考えるのだという目的でお城を出て山に入いられ、瞑想にふけって修行をしている先輩たちに教えを乞うて修行されました。

     

    その精神を汲まれたのが伝教大師最澄であって日本の平安時代に比叡山に延暦寺をつくられ、その後中国へ行って修行を積まれて、仏さまの教えのほとんどを学んで帰ってこられました。

     

    宗教と政治というものは 世のため人のために尽くそうという気持を持つということで これは非常に切っても切れないものだと思います。こうやって、今日も市長さんや議員さんの大勢の先生方は、どういう話か知れないけれど聴いてみようというお気持ちで おいでいただいただけでも素晴らしいことだと思います。敬服いたします。

     

    昔、清瀬一郎という素晴らしい衆議院の議員さんがこの地域(姫路市夢前町)におられました。衆議院議長までされ、終戦後には戦争反対の裁判(東京裁判)の弁護団の団長もされました。この方は常に机の横に妙法蓮華経の本を置かれて、ことあるごとに読まれていたそうです。宗教心を持ち合わせておられた立派な政治家だと思います。

     

    アメリカの大統領も就任した時に聖書に手を置いて宣誓するそうです。

     

    宗教心を持つということは、宗教家になったり、宗教団体に入ったりすることも大事ですが、元になる基本にも個人の宗教を持つということが大事です。

     

    政治では、聖徳太子がまず仏教に感服されて『厚く三宝を敬い、和をもって貴しとなす』という項目を取り入れ、仏教の精神を中心とした十七条の憲法をつくられました。

    その後も歴代の天皇方も仏門に入られ、天皇をやめられても、仏門に入って法皇という名称でお称びするような時代がずっと続いておりました。今でも京都の泉涌寺に歴代の天皇のお位牌がございます。天皇が京都においでになりましたらお位牌の前で礼拝されます。私も一度そこへ行きましたが何とも言えない気持ちがいたしました。だから天皇陛下も普通仏教徒であったのです。明治以降神仏が分離され、主な行事は神道の主催者として行われています。

     

    日本の国は自然を尊敬し、自然を大事にするという惟神(かんながら)の道、神道というものがございます。神主(かんす)という者、神には絶対に従うという教えのもとに、新しい仏教が入ったら非常にそこで争いがあったと思いますが、日本人はお宮もお寺も同じように大事にして、神道の教えも仏さまの教えも信じてきました。そして現在では神仏という述語のように使われています。初詣に出かけましてもお宮にもお参りし、お寺にもお参りします。車にぶら下がっている交通安全のお守りを見てもお宮のお守りを付けているものもあれば、お寺のものもあります。

    本地垂迹説という説をとなえる人があります。日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済のために姿を変えて迹(あと)を垂れたもうのだとする神仏同体説 平安時代に始まり明治初期神仏分離により衰えました。

     

    ところが明治維新で神仏分離が行われまして神道と仏教、お宮とお寺が争うことがありましたけれども、五年ほど前から神仏霊場会というのがございまして、お寺とお宮を巡拝することも考えられ、両方が祝詞をあげ、お経をあげて平和祈願をしています。そういうような行事をはじめ、お宮とお寺が仲よくしましょうという方向で今進みつつあります。

    この間も神仏の融合ということで、近畿地方の神主さんが二百何十人集まられた総会の会場で、私はその責任者である姫路護国神社の宮司さんに依頼されて、「お釈迦さんの一生と仏教の大体の歴史」という仏教のお話を申し上げました。

     

    伝教大師が願われたのは、庶民の幸せということでありますが、日本の国を浄仏国土にしたい、極楽浄土の世界にしたいということでありました。鎮護国家 国を護り鎮める、そして人々の幸せという三つの大願の目標があったと思われます。

    人々の幸せのためにはその人々が在家の菩薩になってほしいということです。出家の菩薩と在家の菩薩がありますが、在家の家庭生活や社会生活をしながら仏教の教えを守っていくというのが在家仏教でございます。菩薩というのは、自分をさておき人を尊重する、人のために働くのが大目標でございます。

     

    在家仏教というのは家庭生活をしながら、社会生活をしながら、生活そのものが行であります。朝早く家庭で奥さんが起きて、みんなが起きる前にご飯ごしらえをする。これも大変なことです。もっと朝寝がしたいなあと思っても無理に起きてしなければならない。しかし(、これも(家族のために行う菩薩)行だと思ってやれば気が楽になるのではないかと思います。

     

    議員の先生方でもいろんな問題にぶつかられる。こんな委員会に入らなければよかったと思われる方もあるかもしれませんが、しかしその苦しい、難しい問題にぶち当たること、これが自分に与えられる一つの修行の項目であったと、それを嫌がらずにぶつかっていただきたいものです。

     

    私は昭和40年に学校をやめて山に上がりました。しかし、特別の修行は何もしておりませんが、一体どうなるんだろといろいろ考えましたが、山に上がって何でもやるんだとお経を読むことも大事だし、大勢の参詣者が来て接待もしなければならない、掃除もしなければいけないし、当時のトイレは汲み取り式で便所がいっぱいになればタンゴにくみ取って天秤に担いで山の中へ捨てに行きました。いやだと思うこともありましたが、これも修行だ、やるべきだという気持ちでやっていると、嫌だという気持ちが薄らいできました。そういう気持ちで嫌がらずにそれを受け入れていくことが菩薩行でございます。

     

    比叡山では一般募集して一念本成といって、仏さまと結縁を結ぶ仏結縁灌頂といって、仏さまの弟子になるという儀式がございます。そして仏さまの教えを信じなさいという行事で、授戒会がございます。戒を続けるといっても、もともとお釈迦さまの申された中には、二百五十八戒だったそうですが、これは常に取り締まられているようなものですね。

    十重四十八軽戒という戒律のお経がつくられて、十の重い戒律と四十八の軽い戒律を決められが、まだ多いんですね。最後に今受戒偈という戒を授ける儀式では五戒を授けます。

     

    五つとは、不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不邪見戒を言います。

    不殺生戒、殺さない。生き物の命を取らない。

    不偸盗戒、人のものを盗まない。泥棒をしない。

    不邪淫戒、邪な男女関係をつくってはならない。

    不妄語戒、嘘をついてはいけない

    不邪見戒、物事を正しく見る。同じ出来事でも皆人によってはものの見方が違います。同じ話を聴いてもとらえ方が全部違います。それを正しく物事を見ていきましょう。正しく解釈していきましょう。正しく受け取って、自分で考えましょう。

     

    それは皆さんご経験があると思いますが、ところで、五戒というのは、誰でも皆さん五戒を犯しているという人はほとんどいないと思います。常識として日本人はこの五戒を従来何百年も守ってきました。ですから、世の中は非常に平穏であったと思います。

    最近では犯罪が非常に多くなるように思われますが。これは、世の中は十界という十の世界に分けています。世界というより種類に分かれております。

     

    十界の内の四つは、

    仏は釈迦如来とか大日如来といった完璧無欠の仏さまがおられる界があります。

     

    その下にあるのが、絶対悟りになれる手前で如来の候補者で菩薩界といいます。観世音菩薩とか地蔵菩薩といった菩薩がおられるのが菩薩の界であります。

     

    その下に声聞・縁覚の二つの界があります。

    これらは個人的なもので、自分さえ悟ればいい、自分が悟るんだ、お釈迦さまの教えを聞いたりして悟りに入る。誰の力の助けも借りないで悟りを開こうと瞑想にふけっている。

    そういう四つの界にいる人はそれによってそれぞれの悟りを開いている訳で、この四つは別格なのですね。彼岸と言っています。

     

    それから後の六つですが、下から言いますと地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上と六つの界でございます。一つの種類分けですね。性格的に種類分けです。

     

    ところがそれぞれの人間も仏さまになっても、菩薩であっても、みんなこの十の世界の性質を皆持っているということですね。みなさんも私もそれを持っているはずなのです。人間というのはそういう性格をもっています。だから、地獄の生き物のような性格、或いは、餓鬼のような欲張りの性質も持っています。それから人を傷つけたり殺したり、詰ったり(なじったり)する、争いをする修羅の性格も持っています。みなこれらの性質を持っているのですが、十のものがすべて隠れているのです。それは理性と考え方によって抑えられているのです。その中の一つが出てくるのですね。

     

    例えば修羅の面が出てくると、この間も9人の人を殺したような残酷な話を毎日のニュースでやっていますが、どうして起きたのか私にも詳しくはかわかりません。不思議に思いますが、縁によってそういう人間の面が出てきます。いろんな十の世界の性質を皆持っているのですが、この十のどれが出てくるか、どれを出しているか。それが人間の生き方の問題だろうと思います。

     

    そういう地獄・餓鬼・畜生・修羅の性格は出さないのが皆さんの姿だろうと思います。そして菩薩のような、如来さまのような思い・心を持っていらっしゃるのが今ここにいらっしゃる皆さん方だろうと思います。これは信じていいと思います。でなかったらここにおいでにはなりませんから。これはうぬぼれではなく自信を持っていただきたいと思います。菩薩になるというのは、菩薩は普通の生活をして、兼行六度という項目がございます。

     

    兼行というのは行と生活を兼ねるということで、六度の度は「渡」という字で仏さまの四つの世界に渡るために 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つのことを心掛け、勤めたならばこれは完璧に菩薩さまであるということでございます。

     

    布施は、相手を尊重する、自分のことを後回しにする考えが布施の精神でございます。布を施すという意味で大風呂敷をもって皆さんの頭の上から着せると頭の大きい人も小さい人も同じように頭の上に載ります。つまり布を着せるように、平等に大勢の人に接しなさいということですね。相手を思う心自分を顧みないで無条件で相手に対する思いやりの心を持つこと、つまり仏さまの心でいえば慈悲の心です。それが布施の行ですね。

     

    次は持戒で、これは戒めを保つ、五戒がございますが、そのほか自分でこういうことはしないでおこう。こういうことは進んでやろう。ということを自分で自分を戒める心がけをする。

     

    忍辱は耐え忍ぶ、悲しいこと、嬉しいこといろんな苦しいことなど沢山ございます。しかしそれにじっと耐えるだけの強い心を持ちなさい。

     

    そして精進し、努力し一生懸命勤めなさい。真心もって勤めなさい。真心でそれを続けることが大事です。世の中で何が一番難しいかと言っても続けることが一番難しいと言われています。

     

    禅定 それは座禅ではございませんが、静かに落ち着いた動かない姿勢ですね。お釈迦さまが悟るために座られたのが今座禅という座り方でやっておられますが、あんなことをしなくても椅子に腰を掛けても、正座していてもいいです。とにかく長続きして動かないでおれる姿勢で物事を考える。或いはぼんやりとしてもいいのです。何も考えないで頭を空っぽにしておくこと。それも心を休める一つの方法です。

     

    その五つのことを努力しておりますと仏さまの智慧に近づけるというので、最後に智慧とあります。これは仏さまの智慧でありまして人間の知恵ではございません。

     

    これら六つのことが努力してできるようになればこれが在家の菩薩です。ですからもう先生方皆菩薩だろうと思っていますが、どうぞそういうことを、自覚をもって、これは菩薩の代議士だと思って政治に当たられたならば日本の国は素晴らしい国になるのではないかという気がします。政治と宗教ということで、宗教心を持った政治家だったら当選間違いないのではないですか。(冗談)

     

    五戒ということがありますが、もう少し縮めまして、これも当然皆さんもご存じのことだと思いますが、三聚浄戒といいまして、摂律儀戒・摂善法戒・鐃益情戒で難しい感じですが簡単に言えば、悪いことはしない、良いことをしよう、そして世のため人のため役に立つことをしようというこの三つですね。これは皆さん当然常識ではお持ちだろうと思います。そのために損得を離れて議員先生になられたと思いますが、そういうことはほとんど私が申しあげるまでもなく当然お持ちだと思います。

     

    最後に他の宗教との比較ですが、イスラム教のISはイスラム教の過激派の中の少数派の中のまたもっと少数の過激派のリーダーがやっているのであって、本当のイスラム教はあんなものではないと注意されたことがあります。

     

    だから比叡山では毎年宗教サミットと言って83、4日に比叡山に集まって、いろんな宗教の人が集まって平和祈願をします。その時、イスラム教の方もおいでになります。神道の方もキリスト教の方も仏教の人も諸派の人も、ご参列をいただいております。特に立正佼成会の会長さんは広い視野を持たれたお方でございます。そういった中、日に会議が開催されるのですが、特にイスラム教の人は会議中にも関わらず、時間が来たら会議をストップして礼拝をいたします。それがイスラム教の儀式でありますので、それを必ず守って14回必ず礼拝します。すべてを捨ててそれぞれの場所で礼拝します。イスラム教の人は規律を守ることに対して非常に厳重です。

     

    日本人は分かっていると言うけれどイスラム教の人のように厳密に五戒を捉えていないですね。ボヤっとしてあそこのお宮へ行ってご利益があるかどうかわからないけど拝んでみよう。お寺に参って健康祈願をしようと軽い気持ちでいます。あまりにも日本人は恵まれすぎて、今まで何百年、否千年以上続いてきた日本人はこういう気持ちがありながら自覚を忘れてぼんやりと頼りしているようなものが日本人の宗教観じゃないでしょうか。だからそれを確実に、こういう言葉によってこれを守らねばいけないという自覚をもっていくのが正しいのではないでしょうか。

     

    そのために立正佼成会は絶えず教えを述べられております。古い私たちの仏教関係ではそういう面でやや怠けているように思います。この新聞(平成29年11月5日付 佼成新聞)読ませていただきました。澤田総務部長の記事によりましたら、党派にとらわれず推薦してお願い申し上げたと書いてございました。これは当然ですね。自民党であれどの党であっても構わない。とにかく宗教心をお持ちで、世のために頑張られている方だったら推薦しましようというおおらかな立正佼成会の考え方、お気持ちがここに表れていたのだと思います。そして推薦された192名の当選と出ています。私たちは党派に関係ございませんが、やはりやはり世の中人のためを大事に考えて下さる党派あるいはそういう先生方に信頼してお願いを申し上げたいという気持ちでございます。

     

    自覚をもってこういうことは必ず、持戒は守ろう、あるいは忍辱、忍耐して我慢していこう。あるいは努力してもう少し続けようという心になって生活することが素晴らしいことです。ただ拝むだけでなく、拝むことも大事なことですが人間は弱いもので、頼らないといけない部分もあります。それが神仏に対する祈りの気持ちです。何としてもこうしてほしい、こうなりたいという願いをもって祈ることは大事なことであると思います。お祈りというのは出会いのもっと強いものであって、そして一人の祈り、これが強い物であれば通るであろうし、弱いものであっても大勢の結集した祈りの心が集中すれば 強い祈りの結集として実現するように私は最近考えております。

    だから日本人全部が「もう戦争が起きないように」という気持ちでもっと努力すれば、安全になる、平和になるような気持ちがいたします。

     

    この辺で雑なことを申し上げましたが、終わらせていただきます。

     

     

     

    (日本の神道も仏教も決して対立の思想はなく、常に融合・調和の精神が基本になっています。これは平和の基本だと思われます。)     M.O

     


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