教会長のコラム(第1回・投稿編〔30編〕)

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    『教会長のコラム』

     

    『私の陀羅尼』への沢山の投稿、誠にありがとうございました。

     皆さん、それぞれに、自分の中の仏さまに呼びかける、心の

    こもった陀羅尼を考えてくださり、本当に感動いたしました。

     それでは、皆さんの陀羅尼をご紹介させていただきます。合掌 


     

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    (ペンネーム)ギャランGTO さん
    【私の陀羅尼】
     思いやり会話 そわか
    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
     言葉が強い時があるので、やわらかに話をしたい思いです。
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    (ペンネーム)ひまわり大好き さん
    【私の陀羅尼】
      ひとこきゅう   はなし                                   
     一呼吸してお話 そわか
    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
     相手との会話のキャッチボールの際、一呼吸おくことで冷静さをとりもどせるので、一呼吸を大切にしたいから。
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    (ペンネーム)宇晟(うせい) さん
    【私の陀羅尼】
     にこにこ そわか
    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
     人相が悪いので、いつもの願望です。
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    (ペンネーム)サマンサ さん
    【私の陀羅尼】                                
     ひろく ひろく 大らか そわか
    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
     心にゆとりがなくなったり、人を変えようとする心になると、攻める心が大きくなる私です。相手を信じ寛容な心の持ち主になりたいとの思いをこめて・・・。
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    (イニシャル)H・I さん
    【私の陀羅尼】
     本当の自分を知る そわか
    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
     小林教会長さんのご縁をいただき、自分はどうありたいのか自分と向き合ってみようと思わせていただくことができました。それには「法華経の新しい解釈」今年一年じっくりと読ませていただこうと思います。まだ4ヵ月ほどですが、つらい時迷った時とても救われます。どこをとってもあたたかく・きびしくほんとうにありがたいと思います。   
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    (イニシャル)M・M さん
    【私の陀羅尼】                                  
     ありがとう そわか
    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
     日常の小さなことにも感謝ができる自分になれるよう、また ❝ ありがとう ❞ という言葉が好きなのでありがとうそわかにしました
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    (イニシャル)Y・I さん
    【私の陀羅尼】
     丁寧に丁寧にそわか
     ありがたや ありがたや ありがたや そわか
    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
     ささやかなことに沢山感謝出来る心をつくる。又、気づきを多くみつけられる様になる。
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    (イニシャル) K・Tさん
    【私の陀羅尼】                                
     一呼吸そわか
    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】   
     心を落ち着いた対応をするため。
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     ここで一休み

     

     

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    (イニシャル) H・S さん
    【私の陀羅尼】
     心穏やかそわか
    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
     どんな人でも気配り・目配り・心配りができるように
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    (イニシャル) H・S さん
    【私の陀羅尼】                                
     和 そわか
    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】   
     一期一会。
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    (ペンネーム) にこちゃん さん
    【私の陀羅尼】
     にこにこお地蔵そわか
     ありがとうそわか
    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
     お地蔵さん、私のあだなです
     ありがとうはかなり言えるようになりました、続けます。
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    (イニシャル) S・F さん
    【私の陀羅尼】                                
     忙しい時ほど笑顔でそわか
    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】   
     忙しい時は周りが見えなかったり険しい顔になっている気がするので、笑顔を意識したいと思います。
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    (ペンネーム) 天帝術師・光将 さん
    【私の陀羅尼】
     神仏礼拝そわか
    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】
     神様・仏様をうやまい、他の宗教を認め共に世界平和を願うため
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    (ペンネーム) はる さん
    【私の陀羅尼)】                                
     すべての事をきちんとそわか
    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】   
     「まあいいか!!」が口ぐせの私。今こそ1つ1つを、又1人1人きちんと、ていねいに大切にできる私になりたいです!!

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    (ペンネーム)ハナちゃん 

    【私の陀羅尼】

     やさしく やさしく

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】

     病気のお陰で周りの方に、いっぱい感謝できました。そして病気は私に優しさを教えるためとご指導を頂き、やさしくなりたいと願って「やさしく やさしく」と決めました。毎日心に「やさしくやさしく」と言って過ごせる有難い日々です。

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    (ペンネーム)そよかぜ さん

    【私の陀羅尼】                                 

     ゆっくり お互いさま そわか

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】

     普段からせかせかして気がもめるので、ゆっくりの心で思いやれるよう、又いろんな人のお陰さまで過ごさせて頂いていますので、お互いさまの心で、穏やかな心で過ごさせて頂けますように。

     

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    (ハーフタイム)

    ティータイムのお時間です

    花に誘われておくつろぎください

     

    ※ 6/21の大聖堂前の蓮の花です。

      (撮影者の許可を頂きました)

     

      

     

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    (ペンネーム)あすかちゃん

    【私の陀羅尼】

     やさしい声 そわか

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】

     声を出す仕事をしていたので、年をとってもやさしい言葉・声で人をあたたかくする。

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    (イニシャル)H・I さん

    【私の陀羅尼】                                

     何事にも腹を立てない そわか

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】

     気に入らない事にも腹を立てず感謝で受けとれたら心がおだやかで居られます。腹を立てた後は気分が悪いから。

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    (ペンネーム)つぶあんこ さん

    【私の陀羅尼】

     スマイル そわか 

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】

     笑顔でふれ合って行きたい。そして みんなと一緒に明るく楽しく元気で・・との思いをこめて。   

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    (イニシャル)S・M さん

    【私の陀羅尼】                                  

     (急に態度の変わる人に)待ちます そわか

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】

     何があっても(笑顔でそわか)

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    (イニシャル)H さん

    【私の陀羅尼】

     ほんわか そわか

     愚痴は言うまい そわか

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】

     現状に満足しきれない心がよく出るので、常に感謝の心でいられるようになりたい。

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    (イニシャル) K・Kさん

    【私の陀羅尼】                                

     感謝 感謝 感謝

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】   

     朝目がさめた時から、夜休むまですべてに感謝です。合掌

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    (イニシャル) K・K さん

    【私の陀羅尼】

     いそがは まわれ そわか

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】

     いつも忙しそうにしていると、よけいにやっかいな事にまきこまれてしまう事もあるので、ゆっくりと一日を大事にしていきたいと思いました。

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     ここで一休み

     

     

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    (イニシャル) K・K さん

    【私の陀羅尼】                                

     おだやか運転 そわか

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】   

     歳も高齢になりました。車にのる時は車に声をかけて・・ おねがいします・ありがとうございました。

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    (ペンネーム) てるちゃん

    【私の陀羅尼】

     おおらかな心で そわか

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】

     今日一日への健康・お仕事・人との出会いを大事にさせて頂くことに。

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    (ペンネーム) てっちゃん

    【私の陀羅尼】                                

     気づかい・心づかい そわか

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】   

     現場での仕事の職人さんとの出会いを大切に、心づかいをさせていただく。

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    (ペンネーム) ひろやん

    【私の陀羅尼】

     ほんわか あたたか そわか

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】

     人とのコミニケーションを大事にさせて頂くには、いつも心と顔にやさしが出来るようにいしきさせて頂きます。

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    (ペンネーム) 吉川英治 さん

    【私の陀羅尼】                                

     こらえて こらえて 堪忍 そわか

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】   

     怒りやすい性格のため。

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    (ペンネーム) こばちゃん

    【私の陀羅尼】                                

     笑顔で羽ばたけ そわか

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】   

     コロナで気持ちも暗くなりがちだったので、これから少しでも明るく積極的に行動できるように。

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    (ペンネーム) 花々 ( M・H )

    【私の陀羅尼】                                

     えみ そわか

    【私の陀羅尼を決めた理由や、こめた思い】   

     (幸あれ・よろしく・めでたい)

      笑う門には福来る。短気な私ですので・・目標です。 いつでも笑顔で。

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    教会長のコラム(第1回)

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      『教会長のコラム』

       この度、姫路教会長のお役を拝命致しました、小林宏彰と申します。

      姫路教会の皆さま、どうぞよろしくお願い申し上げます。

       

       今回の『しらさぎ日記』リニューアルを期しまして、これからは「教会長のコラム」として、私が日頃考えていることや、感動したこと、皆さんと分かちあいたいと思ったことなどをつづっていきたいと思います。

       

       第1回は、『わたしの陀羅尼(だらに)』です。

       

       会長先生はご法話の中で、陀羅尼を「それを唱えれば、心のなかで動き回る貪りや怒りや自己中心の思いを抑えて、自分のなかにある仏の心をはたらかせる力をもつ、呪文のような言葉」とご説明くださり、ご自分の陀羅尼「おんにこにこ はらたつまいぞや そわか」をご紹介くださいました。

       また、國富理事長さんは、「楽しく 楽しく 楽しく」をご自分の陀羅尼とされていることをご紹介くださいました。

       

       そこで、私も自分の陀羅尼を持たせて頂きたいと思い、考えました。

      私の陀羅尼は、『ほんわか そわか』と、『思いやり運転 そわか』とさせて頂きました。

       

       『ほんわか そわか』は、私が初めて教会長のお役をいただく時に、会長先生から頂いたお言葉「ほんわかした人になってください」にちなんでつけさせて頂きました。

       『思いやり運転 そわか』は、車を運転する時に、つい我が出てしまいがちになるので、それを抑えるためにつけさせて頂きました。

       

       「そわか」という言葉は、自分のなかの仏への呼びかけとなり、仏心に立ち返るスイッチになるということなので、人と会う時や車の運転をする前に、この『ほんわか そわか』と『思いやり運転 そわか』を唱えさせて頂いています。

       

       ついつい忘れてしまうこともありますが、『ほんわか そわか』は、自分の心を落ち着けて、優しい気持ちを持つのに役立っていますし、毎日「今日も、よろしくお願いします」と車に語りかけ、吊るしてあるお守り(写真)をさわって、『思いやり運転 そわか』と唱えると、車の中でカッとなる回数が減り、相手に譲る心の余裕が生まれ、穏やかな気持ちで運転できるようになってきました。

       

       ぜひ、皆さまも、自分の陀羅尼を考えてみてください。

       

      そして、よろしければ、この『しらさぎ日記』ブログに投稿してください。

       

       どうぞよろしくお願い致します。

                                     合掌

                             

                             姫路教会長 小林宏彰


       

       

       

       

       


      令和4年

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        ただ今  リニューアル工事中です

               

        よろしくお願い申し上げます

        令和3年12月度 教会長のお話 【吉田教会長 最終版】

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           令和3年12月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。今月は、『心の声に耳を澄まそう』というテーマを、

           〇 懴悔は悟りと一つ ○ 法華経、そして佼成会の真精神 

           の2段落でご解説いただいた。

           

           今月は、2段落のご法話の掲載は省かせていただきました。
          この度、11月30日をもって退職させていただくことになり、その身辺整理に多忙を極め、感想をお伝えするのが精一杯でした。申し訳ございません。

           

           さて、先月の感想の中で、『令和元年より、3年間にわたり、会長先生より法華三部経の要点を「佼成」のご法話でご解説いただきました。各品の要点を会長先生の視点で取り上げていただき、そして、その要点をとおして具体的な心の持ち方、実践の在り方を分かりやすく、丁寧に教えていただきました。この3年間の掲載は大きな宝物をいただけたと感謝でいっぱいです。』 と、述べさせていただきましたが、今月は2ヶ月続けて法華三部経の総まとめである「観普賢経」をご解説いただき、2段落では「法華経、そして佼成会の真精神」のテーマを通して、昭和20年10月13日のご神示で示された本会の使命を、会長先生が改めてこれからの布教伝道に向かう心構えをご指導いただいていると信受させていただきました。

           成仏に向かって精進させていただく私たちにとって、合掌礼拝は開祖さまが率先して大切にされた常不軽菩薩の姿であり、それは懴悔という悟りを身で示す最も身近な実践であるとご指導くださいました。

           

           間もなくお役は終えさせていただきますが。常不軽菩薩の姿勢をお手本として,生涯精進させていただくことを決定させていただき、「教会長の話」を終わりとさせていただきます。


           皆様、5年間誠に有難うございました。

                                                                    合掌

           

                                                                           立正佼成会 姫路教会

                                        たかとし

                                  教会長 吉 田 高 聡

           

           

           

           

           

           


          令和3年11月度 教会長のお話

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             令和3年11月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただ

            き、文末に感じたことを書かせていただきます。

             

             今月は、『なぜ、反省が必要なのか』というテーマを、

             〇 高みをめざすから反省がある ○ 何度も繰り返しながら 

             の2段落でご解説いただいた。

             

             まず、『高みをめざすから反省がある』の段落では、

             

             東洋思想研究の権威(けんい)として知られる安岡正篤(やすおかまさひろ)師によると、私たち人間は「少しでも高く、尊く(とうとく)、大いなる存在に向(むか)おうとする本能」をもっていて、そのはたらきによって神仏を仰(あお)ぎ、敬(うやま)う心が生まれるといいます。同時に、人としての高みをめざすがゆえに、自分に至らないところがあると気づいたときには、それを省(かえり)みて恥(は)じる心が生じると述べています。つまり、反省や懴悔(さんげ)が人間の心を育て、ひいては人類の進歩や向上を支えてきたということです。

             ところが、一般的に反省や懴悔は、不名誉なものと思われがちです。とくに懴悔は、「自分のおかした罪悪に気づき、それを神仏や他人に正直に話して悔(く)い改めることを誓う」と辞書にあるので、その言葉の印象からか、否定的で暗いイメージをもたれています。そのため、失敗をして反省したり、人前で懴悔したりするのは「恥ずかしくていやだ、情けない」と思う人がいるのでしょう。

             しかし、理想とする存在や人間的向上をめざせばこそ、反省や懴悔の心が起きるとすれば、反省や懴悔は向上を求める前向きな意思のあらわれです。情けなくて、みじめなことなどではなくて、むしろ失敗や挫折(ざせつ)に恥じ入りながら向上していくのが、人間の当たり前の姿なのだと思います。

             私たちになじみ深い法華三部経(ほっけさんぶきょう)では、その結びで、法華経(ほけきょう)の教えを実践していく上で必要なこととして、懴悔をテーマとする仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう)(以下、観普賢経)が説かれます。どれほど精進(しょうじん)しても私たちは雑念(ざつねん)に惑(まど)わされますし、至らないことのすべてに気がつくわけではありませんから、いつでも反省、懴悔する心が大切で、それが精進と一体になるとき、成長が促(うなが)されるということです。

             繰り返しになりますが、反省も懴悔も、私たちが理想を求めて生きていることから生じるものです。それはいわば、仏性(ぶっしょう)のはたらきによる向上の証(あかし)であり、菩薩の証明です。だとすれば、反省や懴悔ができること自体が、尊く、有り難いことにほかならないといえるのではないでしょうか。

             

             『何度も繰り返しながら』の段落では

             

             先の東京オリンピックでは、「自分に足りない部分を見定めて、さらに上をめざします」といった敗者のコメントにも胸打たれましたが、このこと一つをとっても、人生において反省が向上と一つのものであることがわかります。

             ただ、反省したり懴悔したりしたことが守れずに、失敗と後悔(こうかい)を繰り返すことがあるのも人生です。そのなかで、「懴悔したからには、絶対に同じ過(あやま)ちをおかしてはならない」と窮屈(きゅうくつ)に考えると息苦しくなります。反省を生かそうと努め、あるいは信仰における懴悔を実行しようと励むことは大切ですが、そのことにとらわれすぎると、思うようにできない自分や人を責めることにもなりかねません。

             観普賢経には、「煩悩(ぼんのう)をすっかり断(た)ち切っていなくても、けっして煩悩に溺(おぼ)れないこと。菩薩の行ないはそれが大切です」とあります。開祖さまは、「自分が弱くて間違いやすい人間であることを思い知ったら、新たな決定(けつじょう)をし直せばいいのです。今年だめだったら、来年は必ずと決心すればいい」と、至らない私たちに助け舟をだしています。

             いいところも悪いところも含めて、神仏の前に自分のありのままをさらけだすと、心が洗われます。そうしてまた、再始動すればいいのです。その反省や懴悔が精進の歩みを支える杖となって、少しずつ人間的に成長していくのです。

             また、人はなすべき仕事に没頭(ぼっとう)しているときがもっとも神に近いという言葉にふれたことがあります。観普賢経に、「若(も)し懴悔せんと欲せば 端坐(たんざ)して実相(じっそう)を思え」とあるとおり、反省、懴悔をしたら、あとは自己中心の見方を離れて、日々を一所懸命に暮らすことが大切なのです。

             

             と、締めくくられた。

             

             令和元年より、3年間にわたり、会長先生より法華三部経の要点を「佼成」のご法話でご解説いただきました。各品の要点を会長先生の視点で取り上げていただき、そして、その要点をとおして具体的な心の持ち方、実践の在り方を分かりやすく、丁寧に教えていただきました。この3年間の掲載は大きな宝物をいただけたと感謝でいっぱいです。

             さて、今月は法華三部経の総まとめである「観普賢経」をご解説いただき「なぜ反省が必要なのか」のテーマは、成仏に向かって精進させていただく私たちにとって重要な問いかけであります。会長先生は『年頭法話』でも「反省創造しよう」と方針をお示しいただきました。反省・懴悔の重要性をあらためて確認させていただきました。これからは、自己中心の見方を離れ(端座して実相を思い)、自分の仏性を自覚し、ふれる人の仏性を拝み切る日々を、一所懸命暮らしましょう。 

                                                                      合掌

             

                                                                            立正佼成会 姫路教会

                                          たかとし

                                    教会長 吉 田 高 聡

             

             

             

             

             


            令和3年10月度 教会長のお話

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               令和3年10月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、文末に感じたことを書かせていただきます。

               

               今月は、『 原点に帰ろう 』というテーマを、

               〇 「十よりかえるもとのその一」 ○ 道心と童心 

               の2段落でご解説いただいた。

               

               まず、『「十よりかえるもとのその一」』の段落では、

               千家流(せんけりゅう)茶道の開祖、千利休(せんのりゅう)が、茶の心得(こころえ)を説いた道歌(どうか)には、道を求めるすべての人に共通する教えがいくつも見受けられます。その一つが、「稽古(けいこ)とは一より習(なら)い十を知り/十よりかえるもとのその一」という言葉です。

               信仰をはじめたばかりのころ、私たちは先輩から一つ一つ教えていただきながら、自分でも教えを求めて学び、少しずつ仏の教えを身につけてきたと思います。法座(ほうざ)にすわれば法によって救われた人の話に感動し、道を求める気持ちがさらに高まって、一方では自分の至らなさに気づかされ、また精進(しょうじん)する ―― その繰り返しが「求道(ぐどう)」です。

               ところが、それに慣れてくると、最初のころの感動や求める気持ちが薄れ、わかったような気になって、自己を磨(みが)くという信仰本来の目的を見失ってしまいがちです。

              「十まで習ったから、もうそれでいい」ということではなくて、「十まで知ったなら、また一に戻っておさらいをする」。そうすることで、最初に学んだときには気がつかなかったことに気づかされ、また一歩、教えの真意(しんい)に近づくというのが、冒頭に掲げた言葉の意味あいだと思います。

               法華経(ほけきょう)においても、二十八品(ほん)の結びとなる「普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)」は、まさに法華経全体を総括(そうかつ)する内容で、そのことをとおして、つねに原点に帰る大切さが教えられています。

               晩年の開祖さまが、法話でよく同品の「四法成就(しほうじょうじゅ)」にふれたのも、序品(じょほん)からの法華経の教えをやさしい表現でおさらいする内容だからだと思います。仏に護(まも)られていることを信じて、善(よ)いことを繰り返し、信仰の仲間とともに、社会全体の幸福を願って思いやりの実践につとめる ―― これが、仏の道を信じて歩む私たちの基本、原点だからです。

               

               『道心と童心』の段落では

               何ごとも原点に帰って学びを深めていくことの大切さは理解できても、実際には、毎日のご供養(くよう)さえ初心のころのような気持ちでつづけられないという人もいそうです。

               「恋法(れんぽう)」という言葉があります。ただひとすじに、純真(じゅんしん)に法を求めるという意味で、「勧発品」の「勧発(かんぼつ)」のことを天台大師(てんだいだいし)がこのように解釈して記された言葉のようです。

               たしかに、仏の教えを聞かせていただきたいと一心に願うのは、あたかも人を恋()い慕(した)うときのように、相手(法)のことをもっと知りたいと思い、相手とともに歩みたいと願って、それを純粋(じゅんすい)に求める気持ちに似ています。いつでも信仰の原点に帰って精進するには、人を恋するように道を求める気持ちが原動力になるということでしょう。

               ただ、そうはいっても、一般社会にあって日々の生活を大切にしながらとなると、信仰一途(いちず)には行けないこともあります。生きるためには利害(りがい)や打算(ださん)も無視できなくて、そのために精進がおろそかになるのもやむを得ないかもしれません。それでも、みんなと一緒にいい社会をつくり、ともに幸せになりたいという、幼い子どもがもつような純粋な願いを忘れなければ、いつでも発心(ほっしん)したころの気持ちに帰ることができます。つまり、「道心(どうしん)」とともに「童心(どうしん)」を失わないことが大切だということです。

               「勧発」の「勧(勧(すす)める)」という言葉には、「励まして気持ちを奮(ふる)い立たせる」という意味もありますが、「普賢菩薩勧発品」では、仏の教えを実践する人が仏から「善哉(ぜんざい)」とほめられたり、頭をなでられたりします。日々の仏道実践(ぶつどうじっせん)に新鮮な気持ちでとりくむとき、仏はこのようにいつでも私たちをあたたかく見守り、励ましてくださるのです。

               そう思うと、地道(じみち)な精進にも弾(はず)みがついて楽しくなってきます。原点に帰れば、ご供養も法座もサンガとの出会いも、感動を新たにする喜びの場であると気づくのです。

               

               と、締めくくられた。

               

               今月は「原点に帰ろう」というテーマでご指導をいただきました。「法華経においても、二十八品の結びとなる『普賢菩薩勧発品』は、まさに法華経全体を総括する内容で、そのことを通して、常に原点に帰る大切さが教えられています。」(本文)法華経に出会えた私たちが、その教えを「ほんとうに自分のものにする」、本当に自分のものにするというのは「真の功徳を得る」ということにほかならない。そのためには「四法成就」が必要であると『法華経の新しい解釈』でも説かれています。

               つまり「諸仏に護念せらるる(信仰の確立)」「徳本を植える(自行の確立)」「正定聚に入る(僧伽意識の確立)」「一切衆生を救う心を発す(化他行の確立)」ために、三つの基本信行の一つひとつを丁寧に実践させていただくことが、原点に帰ることではないでしょうか。                            

                                             合掌

               

                                                                              立正佼成会 姫路教会

                                            たかとし

                                      教会長 吉 田 高 聡

               

               

               

               

               

               

               


              令和3年9月度 教会長のお話

              0

                 令和3年9月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、

                文末に感じたことを書かせていただきます。

                 

                 今月は、『善い縁を結ぶために』というテーマを、

                 ○ 最高のご縁とは ○ 心の姿勢が大事 

                 の2段落でご解説いただいた。

                 

                 まず、『最高のご縁とは』の段落では、

                 私たちは日々、さまざまなご縁のなかで生きています。縁によって生かされている、といってもいいでしょう。人との出会い、ものごととの出会い、そして家族との会話一つも、そのときのタイミングが生みだす縁によるものです。

                 そうした縁の一つ一つが、いつでも善いものであってほしい、喜ばしいものであってほしいと、私たちは願います。

                 しかし、そう都合よくいかないのが私たちの人生です。とくに人とのご縁では、いやなことや不都合なことが起きると、とたんにその出会いは善縁(ぜんえん)と感じられなくなります。

                 神道(しんとう)の黒住教(くろずみきょう)を開かれた黒住宗忠(むねただ)という方は、何につけ「善悪ともに天命(てんめい)と思えば、少しも苦にならない」といわれ、「何事も有(あり)がたひにて世にすめば むかふものごと有がたひなり」と示されています。つまり、この世のはたらきはすべて天命であり神仏のはからいなので、めぐりあう縁に善いも悪いもなく、自分中心の見方をしなければ、何もかもが必要あって出会う有り難い縁だということです。

                 そして、そうした縁をとおして真理を学び、受けとることができたら、それこそが「善い縁を結ぶ」ことの本来の意味だと思います。仏教徒であれば、仏の教えを伝えるご縁がそれに当たります。すると、すでにサンガに連なる私たちは、最高の善縁に恵まれた幸せ者といえそうです。

                 

                 『心の姿勢が大事』の段落では

                 ところで、私たちはどうして善い縁を望むのでしょうか。

                漠然(ばくぜん)と「そのほうが幸せだから」と思う人も多いでしょうが、仏の教えからすると、私たちは仏性(ぶっしょう)そのものとして生まれてきたからです。それが、善い縁を結びたいと願う根源的(こんげんてき)な理由です。すべてが調和した円満な状態を、私たちの心はつねに求めているのです。

                 そのような私たちが、つい顔をのぞかせる自分勝手な思いに負けないで、出会う人やものごとをいつでも善い縁にしていくポイントは、そのご縁が何を教えているのかを「学ぶ」姿勢と、そのことで気づいた点を「省(かえり)みる」ことです。仏は、あらゆるかたちで教えを説き、真理を示していますから、人やできごととの出会いのなかにあるお諭(さと)しをキャッチすることで、すべてが善縁となるのです。

                 また、法華経(ほけきょう)の「妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)」は、子が親を仏の教えに導く説話ですが、ここでは親である妙荘厳王が、立場や体面(たいめん)にとらわれないで「柔軟(にゅうなん)」に子の進言(しんげん)を聞き入れ、「謙虚」な気持ちで仏道修行に励む姿勢が描かれています。

                 開祖さまは、善い縁をつくるには「まず人さまを拝(おが)むこと」と示され、自分を高く見せようとする小我(しょうが)を捨てると、善い縁となるふれあいが生まれるともいっています。心一つで、わが子が人生の師ともなる善縁が展開するのです。子どもからの指摘を柔軟に受け入れられない「頑固(がんこ)おやじ」には耳が痛い話ですが、わがままが出がちな家族だからこそ、日々、善い縁を繰り返す心の姿勢が大切なのだと、自戒(じかい)しています。

                 今月10日に「報恩会(ほうおんえ)」を迎える脇祖さまは、「人の気持ちをよくくんでものごとにあたったらなら、どんな人とでも円満におつきあいできる」といって、つねに人を思いやることを忘れず、「人さまを救うのは、まごころが第一」と語ったとおり、慈悲(じひ)に徹する姿勢を貫(つらぬ)きました。病(やまい)の問屋といわれるほどの病苦や、貧しい暮らしのなかで味わった悲しみから、「善い縁は、まごころが結ぶ」という真実を体験的に学ばれたのだと思います。

                 では、いま私たちのまわりで苦悩にあえぐ人の求めに、私たちはどう応(こた)えたらいいのでしょうか、――大事なご縁を見逃しているのかもしれません。

                 

                と、締めくくられた。

                 

                 今年、会長先生は、「年頭法話」で斉家を強調されました。幼少年・青年を健全育成する拠点は、家庭。斉家で大きな役割を果たすのが親の姿勢である。斉家のポイントは、まず、親である私たちが「ご宝前を中心にした生活」「三つの実践」の基本を身に付けることとご指導いただきました。これは、下半期への精進の姿勢でもありますが、「妙荘厳王」の姿勢から、立場や体面にとらわれないで「柔軟」に子の進言を聞き入れ、「謙虚」な気持ちで仏道修行に励む姿を学び、私たちも出会うすべてのご縁が、何を教えているのかを「学び」、そのことで気づいた点を「省みる」ことですべてが善縁となるよう、三つの基本信行を繰り返し精進させて頂き、いま私たちのまわりで苦悩にあえぐ人の求めに、そのご縁から真理を通して何を学ぶのかを一緒に考え、乗り越えていく触れ合いを、心配行として取り組ませていただきましょう。

                                               合掌

                 

                                                                                立正佼成会 姫路教会

                                              たかとし

                                        教会長 吉 田 高 聡

                 

                 

                 

                 

                 


                令和3年8月度 教会長のお話

                0

                   令和3年8月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、

                  文末に感じたことを書かせていただきます。

                   

                   今月は、『心の隙間を埋める』というテーマを、

                   ○ 心のなかには鬼も仏も ○ 常精進を助ける言葉 

                   の2段落でご解説いただいた。

                   

                   まず、『心のなかには鬼も仏も』の段落では、

                   

                   仏教では、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三つを「人の心を毒する根本的な煩悩(ぼんのう)」と教えています。何においても必要以上に貪(むさぼ)り、満足を知らない心、怒りの心、真実の道理がわからず、目先のことしか考えない心 ―― これらが嫉妬(しっと)や憎しみや不和を招いて、自分を苦しめるというのです。

                   「三毒」といわれるこうした煩悩は、人間ならだれでもあるもので、もちろん、釈尊(しゃくそん)にもあったのです。ただ、私たちと釈尊の違いは、欲望や怒りを制御(せいぎょ)できるかどうか、という点です。私たちは、欲や怒りをうまくコントロールできないがために、思わず軽はずみな行動や悪いことをして、よけいな苦しみを背負いこむのです。

                   そのようなとき、私たちは「つい魔が差して」といったりしますが、その「魔」は「人に害を与える鬼類(おにるい)」とか「人の心を迷わせ、乱し、修行を妨(さまた)げるもの」といわれます。

                   ただし、それは外部から私たちの心に侵入(しんにゅう)してくるものではありません。神や仏が自分の心の写し絵であるのと同じで、魔も鬼も、すべて自分の心のはたらきです。

                   ところが、幸いなことに、法華経(ほけきょう)の「陀羅尼品(だらにほん)」に「陀羅尼を得たならば、餓鬼(がき)のような鬼どもが人の弱点をさがしてつけ入ろうとしても、つけこむ隙(すき)が見いだせない」とあります。餓鬼とは貪欲の象徴ですから、あれも欲しい、これも欲しいと貪る心が起きかけても、「陀羅尼」を得れば、その心が暴れだす前に制御できるというのです。

                   それでは、心のなかの魔や鬼が暴れだす隙を与えない「陀羅尼」とはいったいなんでしょうか。また私たちも、その「陀羅尼」を得ることができるのでしょうか。

                   

                   『常精進を助ける言葉』の段落では 

                   

                  「陀羅尼」について、本会では「あらゆる悪をとどめ、あらゆる善をすすめる力」「それを唱えれば仏の世界にまっすぐに入っていくことができる神秘的(しんぴてき)な言葉」と説明しています。もう少しわかりやすくいえば、「陀羅尼」とは、それを唱えれば、心のなかで動き回る貪りや怒りや自己中心の思いを抑(おさ)えて、自分のなかにある仏の心をはたらかせる力をもつ、呪文(じゅもん)のような言葉ということでしょう。

                   以前、武士道について書かれた『葉隠(はがくれ)』のなかの「跡見(あとみ)よ そわか」という言葉をご紹介しましたが、これは「忘れていることはないか」「もう一度、よく見てごらん」と、自分の行ないをふり返ることをうながす「陀羅尼」です。

                  「そわか」とは仏への呼びかけの言葉で、円満成就(じょうじゅ)するといった意味もありますから、この言葉が自分のなかの仏への呼びかけとなり、仏心(ぶっしん)に立ち返るスイッチになるのです。

                   ついカッと頭に血がのぼりそうになったときなどに、私は心のなかで「おんにこにこ はらたつまいぞや そわか」と唱えます。すると感情の波が静まって、後悔するような言動を慎(むさぼ)むことができるのです。

                   どれほど強い意志をもった人も、鬼や魔にたとえられる貪瞋痴(とんじんち)の誘惑にはなかなか勝てません。しかし、心に隙が生じそうなときに自己を省みる「陀羅尼」というスイッチがあれば、魔が動きだす前に隙間を埋めて、心を切り替えることができます。菩薩(ぼさつ)の道を歩もうと誓いながらも、迷ったり悩んだりすることの多い私たちにそのことを教えるのが「陀羅尼品」ではないかと私は受けとめています。

                   難しい言葉の意味や理屈がわからなくても、「陀羅尼」を唱えれば心願(しんがん)が成就するといった昔からの用いられ方を見ても、私たちをいつでも精進(しょうじん)の道へと引き戻し、元気を与えてくれる力がそこにあるということでしょう。

                   では、自分にとっての「陀羅尼」とは ―― それを考え、会得(えとく)するのもまた、心の隙間を埋める助けになるはずです。

                   

                   と、締めくくられた。

                   

                   仏教は「中道」の教えといわれます。「中道」とは一方にかたよらないということですが、それは「右にも左にもかたよらない、ちょうど真ん中」というような固定的な位置を指すものではなく、真理に合っていれば位置はどこでもいいという考え方です。この教えが身につくと、固定的なものの見方はなくなり真理に合った考え方が身につくといわれます。

                   そして「陀羅尼品」では、三毒といわれる煩悩に悩まされるのが凡夫であるが、その三毒をコントールできるのが陀羅尼であると説かれます。中道の教えのバランスと陀羅尼による感情のコントロールができると、感情の波が収まって、後悔するような言動を慎むことができる。心に隙間が生じそうなときに、自己を省みる「陀羅尼」というスイッチがあれば魔が動きだす前に隙間を埋めて、心を切り替えることができる。菩薩の道を歩もうと誓いながらも迷ったり、悩んだりすることの多い私たちにそのことを教えてくれるのが「陀羅尼品」である。私にとっての陀羅尼は、「善いことを 心をこめて くり返す」です。

                                                 合掌

                   

                                                                                   立正佼成会 姫路教会

                                                たかとし

                                            教会長 吉 田 高 聡

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                    


                  令和3年7月度 教会長のお話

                  0

                     令和3年7月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、

                    文末に感じたことを書かせていただきます。

                     

                     今月は、『慈しみの眼をもって』というテーマを、

                     ○ 「慈眼をもって衆生を視る」とは、○ 足元を照らす灯に 

                     の2段落でご解説いただいた。

                     

                     まず、『「慈眼をもって衆生を視る」とは』の段落では、

                     

                    「慈眼(じげん)をもって衆生(しゅじょう)を視(み)る 福寿(ふくじゅ)の海無量(うみむりょう)なり」 ―― 法華経(ほけきょう)「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぽん)」の名句として知られる一節です。

                     慈悲(じひ)の眼(まなこ)で衆生を視れば無量の福が聚(あつ)まるというのですが、慈悲の眼で世間や人びとを見るとは、どのようなことを大切にする見方なのでしょうか。

                     六月号の本欄でご紹介した詩人の山尾三省(やまおさんせい)が、「観世音菩薩」という詩で、その答えともいえる仏の教えの真実をやさしく説き明かしています。作品の一部をご紹介しましょう。

                     「観世音菩薩 というのは/世界を流れている 深い慈愛心のことであり/わたくしの内にも流れている ひとつの/深い慈愛心のことであるが/(中略)/一人の人が ぼくに喜びを与えてくれるならば/その人は 観世音菩薩なのであり/一本の樹が ぼくに(なぐさ)めを与えてくれるならば/その樹は まごうかたなく観世音菩薩なのである/(中略)/わたしが人を責めることをしないならば/それが観世音菩薩であり/あなたがわたしを許してくださるならば/そこに聖(しょう)観世音菩薩は 現前(げんぜん)しておられる/観世音菩薩というのは/世界を流れている 深い慈悲心であり/あなたの内にも わたしの内にも流れている/ひとつの 深い慈悲心のことなのである」(『観音経の森を歩く』野草社刊

                     一読しただけで、だれもが仏性(ぶっしょう)を自覚するようなすばらしい詩だと思います。「ほんとうに大事なことをわかってほしい」と願う作者の慈悲心が智慧(ちえ)となって、やさしい表現で教えの真実を伝えるこの作品が生まれたのでしょう。

                    「慈眼をもって衆生を視る」の意味するところを、この詩を手がかりに考えれば、だれのなかにも、観世音菩薩と同様の深い慈悲心が流れていると見ることです。そして、一人ひとり別々の生き方をしていても、ともに全体のなかの一人として自他一体の大きな「いのち」を生きており、互いにそのような尊(とうと)い命をいただいていると見ることです。それが、無量の福を呼ぶ慈(いつく)しみの眼といえるのです。

                     

                    『足元を照らす灯に』の段落では

                     

                     作家の立松和平(たてまつわへい)さんが、信仰の山として親しまれる栃木県の男体山(なんたいさん)に登ったときの体験を随筆(ずいひつ)に綴(つづ)っていました。

                     懐中電灯(かいちゅうでんとう)を持たないで山に入ったその日、立松さん一行は下山(げざん)が遅れて日没を迎え、山道を歩くのが困難になってきたそうです。足元はるかに中禅寺湖(ちゅうぜんじこ)があり、湖畔(こはん)には土産物店や宿の明かりが輝いていますが、山中(さんちゅう)の闇(やみ)は深くなるばかりです。そのとき、前方にかすかな光が見えました。それは、道の先で疲労のためにしゃがみこんでいた女性の持つ懐中電灯の小さな灯(あかり)でした。立松さんたちは女性のもとに歩み寄り、荷物を持ってあげます。そして、細く、小さな灯で足元を照らしながら一緒に山をくだったのです。

                     立松さんは、こう記します。「いっしょに歩いた私たちは、その婦人にとって観音で、その婦人は懐中電燈(でんとう)で足元を照らしてくれたので、私たちには観音ということになる。遠くの光は、どんなに光量(こうりょう)が豊かでも、なんの救いにもならない。そのかわり、どんな心細(こころぼそ)い光でもすぐ前にあれば、それは大いなる救いなのである」と。いたわりや思いやりという淡(あわ)い光のなかにこそ、菩薩が立ちあらわれるのです。

                     それは、観音さまがあらゆる時と場所に現れて救いの手立てを示すと教える、観音経(かんのんぎょう)の「普門示現(ふもんじげん)」の世界そのものです。そして、慈悲の極(きわ)みといわれる「如来寿量品(にゅらいじゅりょうほん)」の結びの一節、「何(なに)を以(もっ)てか衆生(しゅじょう)をして 無上道(むじょうどう)に入り 速(すみ)やかに仏身(ぶっしん)を成就(じょうじゅ)することを得(え)せしめんと」を、私たち一人ひとりが自分の願いとして人を思いやるならば、そこにおおぜいの菩薩が生まれて、みんなが幸せになれますよと、観音経は私たちに励ましと救いを与えてくれるのです。

                     

                    と、締めくくられた。

                     

                     先月号では「観音さまを念ずる」というご法話をいただき、自らの可能性を自覚することの大切さ、観音妙智の力を自覚し、自らその働きができるよう念ずることの大切さをご指導いただきました。

                     今月号では、菩薩の実践についてご指導くださいました。まず、「慈眼をもって衆生を視る」見方について山尾三省氏の詩から、四つの実践が説かれ、この詩を手がかりに、観世音菩薩と同様の慈悲心が自分にも流れていると自覚すること、そして、「足元を照らす灯に」の段落では、立松さんご自身の体験をとおして観音の働きについて、光にたとえられ、「遠くの光はどんなに光量が豊かでも、なんの救いにもならない、そのかわり、どんな心細い光でもすぐ前にあれば、それは大いなる救いとなり、それが観音の救いであると。そこで、天台宗の宗祖「最澄」の言葉「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」が思い出され、一隅を照らす人が観音さまと同じともいえると感じた。観音さまの「普門示現」の働き、苦しみ悩む人に寄り添い、自分にできる精いっぱいを尽くして、心配行をさせて頂く。

                     今月も、また、下半期に向けて、身近な人の足元を照らす灯になれるよう精進させて頂きましょう。                                                                            

                     

                                                   合掌

                     

                                                                                     立正佼成会 姫路教会

                                                            たかとし

                                                      教会長 吉 田 高 聡

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     


                    令和3年6月度 教会長のお話

                    0

                       令和3年6月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、文末に感じたことを書かせていただきます。

                       

                       今月は、『 観音さまを念ずる 』というテーマを、

                       ○ 自分の可能性を自覚する、○ すべての人を救いたい、という願いの2段落でご解説いただいた。

                       

                       まず、『自分の可能性を自覚する』の段落では、

                       

                       法華経(ほけきょう)の「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぽん)」は、「観音経(かんのんきょう)」とも呼ばれて、たくさんの人に親しまれています。そのわけは、私たちが苦悩するとき、一心に観音さまを念ずれば、観音さまはすぐにその声を聞き届け、救ってくださる、という教えに勇気をもらい、観音さまを信じて慕(した)う人が多いからでありましょう。ただ、それだけを聞くと、神仏にご利益(りやく)を願う信仰のようですが、観音さまを念ずることが仏の教えと真剣に向きあうきっかけになるのだとしたら、それも信仰の入り口として尊重すべきものだと思います。

                       とはいえ、私は、観音経は単に念ずれば救われる、助かると教えるものではないと受けとめています。なぜなら、「観世音菩薩普門品」が法華経のなかの教えだからです。観音経には、法華経の精神がこめられているからです。

                       その一つが、自らの可能性を自覚することの大切さです。「観音妙智力(みょうちりき)」という言葉があります。私たちも毎日、読経供養(どきょうくよう)の際に「観音妙智(みょうち)の力(ちから) 能(よ)く世間(せけん)の苦(く)を救(すく)う」と読誦(どくじゅ)するこの言葉の意味あいを、開祖さまは「苦難に会ったときにはねかえす内面的な力、かえってその苦難から栄養をとって成長する不可思議(ふかしぎ)な心の力」と説明しています。

                       苦しみの底から立ち上がり、その苦を糧(かて)に成長できる底力(そこじから)が私たちにはあって、それが「観音妙智力」だというのです。詩人の山尾三省(やまおさんせい)氏は、私たちに内在する根源(こんげん)の生命力を念ずるのが、観音の力を念ずることだといいます。

                       つまり、観音さまとは自分自身のことにほかならず、そのような自己の可能性を信じ、内なる観音の力を信じて一心に念じるとき、私たちの心には安心感とともに気力が湧(わ)いてくる ―― それが、苦から救われるということなのです。

                       

                       『すべての人を救いたい、という願い』の段落では

                       

                       私たちは、たとえば苦しみのなかで絶望しかけたとき、ふと「永遠につづく苦しみはない」と気づいて肚(はら)が据(す)わったり、孤独感にさいなまれて死を念(おも)う衝動(しょうどう)にかられたときに、愛情をもって見守ってくれた人を思いだして生きる力を得たりすることがあります。それは、いわば諸行無常(しょぎょうむじょう)や諸法無我(しょほうむが)などの真理に目ざめ、新たな人生が開かれた瞬間です。たとえ、そのときそれが仏の教えとわからなくても、自分に具(そな)わる智慧(ちえ)の力(妙智力)によって、自ら立ち上がることができたということに間違いはないでしょう。

                       ほんとうに苦しいとき、すがるような思いで「観音さま、助けてください」と念ずる人があるかもしれません。しかし、それでもいいのです。現世利益(げんせりやく)を願う祈りであっても、観音さまを一心に念ずる素直な心と、内なる観音とが一つになったとき、自分本来の力がはたらくのですから。

                       その意味では、「方便即真実(ほうべんそくしんじつ)」という言葉がありますが、観音さまの力という方便をとおして、「仏性(ぶっしょう)が自覚できればだれもが必ず救われる、自由自在な世界が開ける」という真実を教えているのが観音経といえるのです。

                       また観音経には、観世音菩薩がさまざまな手立てをもって人びとを苦難から救うことが繰り返し説かれていますが、それもまた、「すべての人を救いたい」という観音さまと同じ心が私たちにもあることに気づかせる、一つの方便ではないでしょうか。そして、観音さまを念ずることで、あたかも千手(せんじゅ)観音のように、「千の手を差し伸べてでも人びとに幸せや安らぎを与えたい」と願う心があることに気づいたならば、こんどは自分が一人の菩薩となって実践にふみだす。その大切さを、観音経は説き示しているのです。

                       地蔵(じぞう)菩薩に常不軽(じょうふきょう)菩薩……と、観音さまに限らず、自分がめざす菩薩としての歩み方は人それぞれでしょうが、次号ではその菩薩の実践についてふれたいと思います。

                       

                       と、締めくくられた。

                       

                       法華経は「自覚の教え」といわれています。方便品で、仏さまが悟られた真理は「諸法実相」と表明され、それを人間に当てはめると、どのような人もその奥には仏性(仏になれる可能性)を具えているという意味であり、方便品から授学無学人記品までは、開三顕一の法門として、仏性の自覚を促されています。そして、法師品で“法師の自覚”に立ち、仏さまの衆生教化のお手伝いをする決定をし、五種法師や安楽行などの行法を通じて、本尊観に至ります。本仏の願いは一切衆生の救済でありますから、人さまの悩み、苦しみ、迷いから救い出す実践が究極の菩薩行であり、流通分(23番以降)に登場する菩薩さま方はその菩薩行を具体的に実践された私たちのお手本です。そして、お手本としての代表が観世音菩薩さまで、その教化力の偉大さで、観音信仰とまで慕われるほどであります。特に、「すべての人を救いたい」との願いから「普門示現」を実践され、その時のお心は「大悲代受苦」のお心でした、我々はそのお徳を賛嘆するとともに、それをお手本に、「観音妙智の力」を発揮できるよう観音さまを念じて、信者さんの救護に取り組ませて頂きましょう。

                                                     合掌

                       

                                                                                       立正佼成会 姫路教会

                                                              たかとし

                                                        教会長 吉 田 高 聡

                       

                       

                       

                       

                                                                          


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