令和2年10月度 姫路教会行事予定

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    ※「新型コロナウイルス感染拡大防止」対応のため、今月の教団行事

      および教会における行事予定を、一部変更いたします。  

     

    【一般参拝】: 各会員様は、所属支部当番の日に参拝。

          但し、検温の上、マスク着用・手指消毒を行い、人数・換気に留意し

      密集状態にならないよう徹底を心掛けて下さい。

      10/1は当番支部以外では、姫路南支部も一般参拝は可といたします。

      10/15は当番支部以外では、加古川第2支部も一般参拝は可といたし

      ます。

     

    ※ 家庭修養日は、教会道場・・完全閉鎖

      ( 10/2 10/6 10/12 10/16 10/22 10/27 )

     

     10月 1日(木) 9:00〜  朔日参り(布薩の日) ご供養

                   (本部よりYouTube配信があります)                         

     

     10月 4日(日)   9:00〜  開祖さま入寂会 ご供養

                   (本部よりYouTube配信があります)

     

     10月10日(土) 9:00〜      脇祖さまご命日 ご供養

                   (但馬道場より光ファイバーによる中継があります) 

     

     10月13日(火) 9:00〜  日蓮聖人遠忌法要

                   (本部よりYouTube配信があります)


     10月15日(木)   9:00〜  釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日)ご供養

                   (本部よりYouTube配信があります) 

     

     10月26日(月)  13:30〜  太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊

                     と平和の祈り

     

     10月28日(水) 9:00〜  感謝のお礼参り ご供養

     

     

     

     


    令和2年9月度 教会長のお話

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       令和2年9月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、

      文末に感じたことを書かせていただきます。

       

       今月は、『ともに悲しむ心』というテーマを、

       ○ 人の悲しみを悲しむ心情、○ 自他の仏性が輝くように 

       の2段落でご解説いただいた。

       

       まず、『人の悲しみを悲しむ心情』の段落では、

       

       最初に、詩の一節をご紹介しましょう。福島県の高校で国語の教師をつとめるかたわら、詩人としても活躍する和合亮一(わごうりょういち)さんの、「ともに」という詩です。

       「あなたの涙が/わたしに/教えてくれたこと/人は弱い/人は悲しい/人は切ない/だけど/ぬくもりがある/人は人を想う/人は人を愛する/人は人に涙する/あなたも/わたしも/さびしい/だけど/あなたも/わたしも/共に/生きている」(『十万光年の詩(うた)』佼成出版社刊)

       つらい経験をして悲嘆(ひたん)にくれる人に出会ったとき、私たちはこの詩のように、相手を思い、ときにはともに涙したり、手をとって「いつでもそばにいますよ」と励ましたりします。それは、私たちが人の苦しみに共感して、ともに悲しむことができるという、他の動物にはない懐(ゆか)い心情をもつ人間として生まれたからです。

       その共感力といえるようなものは、生きること、老いること、病むこと、死を迎えることなどをとおして、つらく悲しい気持ちをたくさん味わった人ほど、より発揮されるのだと思います。まして信仰をもつ人であればなおのこと、人の苦しみや悲しみがよくわかり、身につまされるのではないでしょうか。なぜなら、数学者の岡潔(おかきよし)さんの言葉をお借りすれば、「人の悲しみがわかること、そして自分もまた悲しいと感じることが宗教の本質」といえるからです。

       そしてその本質は、法華経「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」の掉尾(ちょうび)を飾る、「何を以てか衆生をして 無上道に入り 速やかに仏身を成就することを得せしめんと」の一句にも示されています。

       

       『自他の仏性が輝くように』の段落では

       

       9月のいまごろのことを、暦のうえでは「白露(はくろ)」といいます。朝の草花に宿った露(つゆ)が、日光をあびて輝くさまのことですが、露には「露の世」という言葉に見られるように、はかない印象もあります。しかし先の一句は、露のようにはかなく思える無常の世にあっても、「悲しみにくれる人がいないように」「だれもが仏性に目ざめて救われるように」と願う、仏の切なる思いを伝えているのです。それはまた、菩薩として人に寄り添う生き方を私たちに示します。

       つらい立場の人に寄り添うということでは、釈尊とチューラパンタカ(周利槃特(しゅりはんどく))の逸話がよく知られています。

       ひどく物覚えの悪かったチューラパンタカは、出家して3か月がすぎても、教えの一節すら覚えられません。そのために、先に釈尊の弟子になっていた兄から「もう出ていきなさい」と、たしなめられるのです。ところが釈尊は、自分の愚かさを嘆(なげ)き、泣き沈むチューラパンタカに、一本のほうきを手渡して諭(さと)します。これで毎日、周囲の掃除をして「塵(ちり)を払わん、垢(あか)を払わん」と唱えるように、と。

       やがてチューラパンタカは、その言葉を覚えると同時に「心の掃除が大事なのだ」と気づいて感激し、ついには釈尊の弟子の中でも重きをなすようになったのです。

       チューラパンタカの心を救い、悲しみや絶望感を喜びに転じさせたのは、ひたすらに仏性を信じて寄り添う、釈尊の大慈大悲(だいじだいひ)から生まれるやさしさにほかならないでしょう。

       先ほど「無常の世」といいましたが、私たちは、はるかな過去から生まれ変わり死に変わりするなかで、いま、ここに生かされています。それは、善いことも悪いことも含めた過去の経験を内包(ないほう)しつつ、私たちが仏と同じ「永遠のいのち」を生きているということです。

       善も悪ももちあわせる私たちの、だれにも共通するのは、仏性という揺るぎない本質です。だからこそ、私たちは自他の仏性が輝くようなふれあい、とりわけ悲しむ人に喜びを与える縁となる実践が、大切だと思うのです。

       

       と、締めくくられた。

       

       今月は、「ともに悲しむ心」というテーマで、8月に引き続き「如来寿量品」を背景に解説をいただきました。

       寿量品を通じて、すでに悟りを開いた、成仏している自分であるという立場に立つことの大切さ、本仏と一体であることの視点に立つことの重要性を会長先生は促していただいています。

       そして、人さまをお救いするときに必要なことは、釈尊がチューラパンタカを救われた、大慈大悲から生まれるやさしさに他ならない。そのやさしさの基本は共感力であり、四苦を味わった人は、人の苦しみや悲しみがよくわかる。

       つまり、人さまの苦しみや悲しみを取り除いていこうという自覚に立てたら、今のままの自分で十分お役に立てると思えると、布教伝道への意欲が湧いてくるのを覚え、心配行に一所懸命精進させて頂きたいと思います。

                                    合掌

       

                                                                     立正佼成会 姫路教会

                                     たかとし

                                教会長 吉 田 高 聡

       

       

       

       

                                                    


      令和2年9月度 姫路教会行事予定

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        ※「新型コロナウイルス感染拡大防止」対応のため、今月の教団行事

          および教会における行事予定を、一部変更いたします。  

         

        【一般参拝】: 各会員様は、所属支部当番の日に参拝。

              但し、検温の上、マスク着用・手指消毒を行い、人数・換気に留意し

          密集状態にならないよう徹底を心掛けて下さい。

          9/15は当番支部以外では、姫路東支部も一般参拝は可といたします。

         

        ※ 家庭修養日は、教会道場・・完全閉鎖

          ( 9/2 9/6 9/12 9/16 9/22 9/26 )

         

         9月 1日(火) 9:00〜  朔日参り(布薩の日) ご供養

                       (本部よりYouTube配信があります)                         

         

         9月 4日(金)   9:00〜  開祖さまご命日 ご供養

         

         9月10日(木) 9:00〜      脇祖さま報恩会 ご供養

                       (本部よりYouTube配信があります) 


         9月15日(火)   9:00〜  釈迦牟尼仏ご命日(布薩の日) ご供養

                       (本部よりYouTube配信があります) 

         

         9月20日(日) 9:00〜  秋季彼岸会 ご供養

                       (※一般参拝は御座いません)

         

         9月28日(月) 9:00〜  感謝のお礼参り ご供養

         

         

         

         

         


        令和2年8月度 教会長のお話

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           令和2年8月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、

          文末に感じたことを書かせていただきます。

           

           今月は、『むだなものはない』 というテーマを、

           ○ 「仏に帰る」ための精進、○ 自分のことのように 

           の2段落でご解説いただいた。

           

           まず、『「仏に帰る」ための精進』の段落では、

           

           先日、ある方から「仏になるためには、どんな実践や工夫をすればいいのでしょうか」と尋ねられました。仏教を「仏になるための教え」と説明することがあるので、そのためには何をしたらいいのか、という問いかけです。

           しかし、法華経の「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」をよく味わうと、どうやら私たちは、仏になるために精進するわけではないようです。そこで、私の理解の範囲でこうお話ししました。

           「仏になるというのは、『悟りを得る』ことを指すのかもしれませんが、その意味でいえば、私たちはすでに悟っている、と教えられてあります。ですから、仏になるために修行を、工夫をするというよりも、悟ったあとの精進をしている、それがいまの私たちの日常生活といえるかもしれません」と。ではなぜ、精進をつづけるのかといえば、私たちがときどき自分の本質を忘れてしまうからです。悟っている「ほんとうの自分」に帰るための精進、それが日常の信仰生活なのです。

           いろいろな悩みや苦しみに出合う人生ですが、私たちはすでに悟っているのですから、その自分(自己)を信じ、また人さま(他己(たこ))を信じて、ともに精進することによって、この世界がそのまま「寂光土(じゃっこうど)」となることを教えていただいているのです。そのような仏の教えと出会い、命の尊さを自覚させていただけばこそ、文字どおり有り難い日々をすごせるのですが、残念なことにその幸せな自分を、私たちはときどき忘れては、苦しんでいるのです。

           

           『自分のことのように』の段落では

           

           ところで「如来寿量品」には、「如来の演(の)ぶる所の経典は、皆(みな)衆生を度脱(どだつ)せんが為なり」(仏の教えはすべて、人びとを迷いの世界から救うためのものです)とあります。

           度脱とか迷いの世界から救うというと難しい印象ですが、要するに、いつでも心から、幸せだ、うれしい、楽しいといえる人間になるということです。そして私たちは、自分の本質を忘れなければ、その幸せを実感できるのです。

           そこで、仏さまはさまざまなかたちで、あるいはものごとをとおして、私たちが迷いの世界から離れるヒントを与えてくれています。万億(まんのく)の方便(ほうべん)と経文にあるように、聖人や賢人(けんじん)の教えだけでなく、いいことも悪いことも含めたこの世のあらゆるできごとが、「ほんとうの自分」に帰って幸せを味わうためのヒント、縁になるということです。

           人によっては、ケガや病気によってほんとうの自分に気づくかもしれませんし、人の痛みが理解できるようになって初めて、慈悲(じひ)の心が呼び覚まされる人があるかもしれません。また、人の幸せを見てわがことのようにうれしくなったり、感動の涙がこぼれたりしたら、それは自分の仏性が現れているからでしょう。

           仏は、すべての人が救われるように、幸せになるようにと願われていますが、私たちが人の悲しみや喜びを自分のこととして受けとめていくと、その仏の願いが自分の心に根づいていることに思い至るのです。

           新型コロナウイルスの感染拡大など、世界に広がる現象も、私たち一人ひとりにいろいろなことを教えてくれます。私たちが、自分のこととして受けとめ、学べば、この世にむだなものごとは何一つなく、その一つ一つが「ほんとうの自分」、すなわち仏に帰る縁となるのです。

           余談ですが、遠い国の人のことを自分に重ねて思い、世界じゅうの人の幸せを祈る人たちは、みんな願いを一つにする仲間、いわば世界サンガの一員といえます。

           自他の仏性を信じる私たちの「信心」、つまり信仰が、世界にほんとうの幸せを広げる原点となるでしょう。

           

           (*他己(たこ)):他の人やいっさいの存在のことーーー

                   自他一如と見れば、自分以外のすべてが「自己」と

                   一体の「他己」といえる

           

          と、締めくくられた。

           

           今月は、「むだなものはない」というテーマで、「如来寿量品」を背景に解説をいただきました。

           冒頭、寿量品をよく味わうと、「仏になるために精進するのではなく、悟ったあとの精進をしている」と教えていただきました。

           「法華経」は自覚の教えといわれます、迹門では、開三顕一を通して法師の自覚に立つことを促され、本門に入った「従地涌出品」では本化の菩薩としての自覚(四大菩薩の誓願)に立って、布教伝道することをお示しくださいました。

           そして、「寿量品」の「良医の譬え」で、愚痴の心により、誤って毒薬を飲んでしまい本心を失った子供が、本仏の慈悲により、救われていた自分に気づき、すでに救われていた自分を思い出し、精進を重ねていく(良薬を飲む)、つまり「三つの基本信行」を実践する決定をさせていただくことを教えて頂きました。

           ともすると私たちはすぐに、「いくら頑張ってもダメな自分」とか、「いくら心配してもわかってくれない相手」と思い、挫折しそうになりますが、そうではなく、「仏の慈悲を備えた自分、本当は幸せになりたいと思っている相手」双方の本質(仏性)を信じるために精進をする、と、見方をきりかえ、布教伝道の再開に向け心構えとさせていただきたい。

                                        合掌

           

                                                                         立正佼成会 姫路教会

                                         たかとし

                                    教会長 吉 田 高 聡

           

           

           

           


          令和2年8月度 姫路教会行事予定

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            ※「新型コロナウイルス感染拡大防止」対応のため、今月の教団行事

              および教会における行事予定を、一部変更いたします。  

             

            【一般参拝】: 各自、所属支部当番の日に参拝。

                  但し、検温の上、マスク着用・手指消毒を行い、人数・換気に留意し

              密集状態にならないよう徹底を心掛けて下さい。

             

            ※ 家庭修養日は、教会道場・・完全閉鎖

              ( 8/2 8/6 8/16 8/17 8/21 8/26 )

              自由参拝日は、 教会道場・・完全閉鎖

              ( 8/11 8/12 8/13 8/14 )

             

             8月 1日(土) 9:00〜  朔日参り(布薩の日) ご供養                         

             

             8月 4日(火)   9:00〜  開祖さまご命日 ご供養

             

             8月10日(月) 9:00〜      脇祖さまご命日 ご供養


             8月15日(土)   9:00〜  戦争犠牲者慰霊・平和祈願の日 ご供養

             

             8月28日(金) 9:00〜  感謝のお礼参り ご供養

             

             

             

             

             

             

             


            令和2年7月度 教会長のお話

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               令和2年7月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、

              文末に感じたことを書かせていただきます。

               

               今月は、『いま、自分にできることを』というテーマを、

               ○ 菩薩として何を願い、誓うか   ○ いまが「習学」のチャンス 

               の2段落でご解説いただいた。

               

               まず、『菩薩として何を願い、誓うか』の段落では、

               

               「信心の母にしたがふ盆會(ぼんえ)かな」(飯田蛇笏(いいだだこつ))と詠まれる盂蘭盆(うらぼんえ)の法要も、今月、家族そろって教会道場やお寺に参拝してとなると、それはまだ難しい情勢かもしれません。

               仏心とは「一切衆生(いっさいしゅじょう)を救うの心」と教えられていますから、私たちは、いま世界中に広がっている病気によって苦しむ人たちに心を寄せ、事態が早く終息に向かうことを願うばかりです。一人ひとりが、自分にできることは何かを考え、それを日々、粛々と実践していきたいと思います。

               それで思い起こされるのが、大地から忽然と湧き出て、この娑婆(しゃば)世界で仏の教えを弘め、実践をとおして「すべての人を救おう」と誓う無数の菩薩(ぼさつ)たちです。

               法華経(ほけきょう)の「従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)」に登場するそれら「地涌(じゆ)の菩薩」の代表が、上行(じょうぎょう)、無辺行(むへんぎょう)、浄行(じょうぎょう)、安立行(あんりゅうぎょう)の四菩薩ですが、これは、仏道を歩むものが最初に「仏さまのようになりたい」と願ったとき、つまり菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)したときに誓う「四弘誓願(しぐせいがん)」を象徴的に示しているものと受けとめられます

              上行 ―― 仏の道は無上であろうとも、必ず成就しよう。

                   (仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

              無辺行 ―― 仏の教えは無尽であろうとも、必ず学び尽くそう。

                   (法門無尽誓願学(ほうもんむじんせいがんがく)

              浄行 ―― 煩悩(ぼんのう)の数は無数であろうとも、必ずすべてを断ち切ろう。

                   (煩悩無数誓願断(ぼんのうむしゅせいがんだん)

              安立行 ―― 衆生の数は無辺であろうとも、必ず救い尽そう。

                   (衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)

               ただ、この四つの誓願のそれぞれを生活に重ねあわせて、日常どのように実践すればいいのかに迷う人もいそうです。仏教を易しく説かれた、禅宗の松原泰道師は、「四弘誓願」を実践的な人生訓として次のように表現しています。

               衆生無辺誓願度 ―― 身近な人に奉仕(布施)をしよう。  

               煩悩無数誓願断 ―― 足もとのごみを一つ拾おう。

               法門無尽誓願学 ―― 一日に一つ、教えを学ぼう。    

               仏道無上誓願成 ―― 永遠の路(みち)を一歩一歩ゆっくり歩もう。

               みなさんはいま、仏道を歩む菩薩として何を願い、何を誓って、一日一日をすごしているでしょうか。

               

               『いまが「習学」のチャンス』の段落では

               

               「四弘誓願」を参考にして、自分にいま何ができるかを考える人は、いうまでもなく仏の教えを信じ、実践する志(こころざし)のある人ですが、それは仏と同じ心になっているということです。「そういわれても」と、気後(きおく)れする人があるかもしれませんが、教えにふれて「仏さまのようになりたい」という気持ちを起こしたとき、私たちはすでに、仏の心と一つになっているのです。

               仏と私たちは、「一体不二(いったいふに)」といわれます。凡人も聖人も、その本質は一つという意味の「凡聖不二(ぼんしょうふに)」という言葉もあります。私たちに仏の教えの尊さがわかるのは、その根っこにある「すべての人を救いたい」という尊い願いが自分にもあるからです。人間として命をいただいたということは、仏と同じものを具(そな)えているということ――それを信じることが信仰であり、信心といえるでしょう。

               その意味で、いまはまさに、自分の信仰のありようをふり返り、日々の実践という「習学(しゅうがく)」の繰り返しをとおして、菩薩の自覚を高めるいい機会なのかもしれません。

               ところで「従地涌出品」では、先の四菩薩のような人を、「衆生の見んと楽(ねが)う所」、すなわち「すべての人がお目にかかりたいと渇望(かつぼう)するような方々」だといいます。

               私にも、本会の先輩や他宗教の方のなかに、「またお目にかかりたい」と思わせられる方がいますが、その方々に共通するのは、神仏などを尊び敬う心が強く、一方では苦しみや悲しみの底に沈む人を常に思いやる、情愛あふれるという点です。私たちも、そのような菩提心を発して、日々に精進(しょうじん)をしてまいりましょう。

               

              と、締めくくられた。

               

               いよいよ布教活動が再開されるようになり、幹部さん方は、教会活動はまだ制限がありますが、信者さんの手取りは、三密を避けて進めていけるようになりました。

               心配行をさせて頂くにあたり、今月の会長先生のご指導から、まず自らの精進の方向を定め、本化地涌の菩薩(実践を旨とする菩薩、本仏から教化された菩薩)の自覚に立って「四弘誓願」の心を誓わせて頂きましょう。

                                            合掌

               

                                                                             立正佼成会 姫路教会

                                             たかとし

                                        教会長 吉 田 高 聡

               

               

               

               

                                               


              令和2年6月度 教会長のお話

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                 令和2年6月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、

                文末に感じたことを書かせていただきます。

                 

                 今月は、『怠け心に負けない』というテーマを、

                 ○ 精進が大事と知りながら、○ 待っている人がいる 

                 の2段落でご解説いただいた。

                 

                 まず、『精進が大事と知りながら』の段落では、

                 

                 昔の流行歌に、「わかっちゃいるけど やめられねえ」という一節があ

                ました。おもしろおかしい表現ながら、私たちの心のはたらきをみごと

                あらわしています。

                 現に私たちは、ともすると、なすべきことを怠ったり、しないと決めた

                ことを、ついしてしまったりします。お互いさま、「わかっちゃいるけど

                ・・・・」と、反省することが少なくないのではないでしょうか。

                 ところで仏教では、「常精進(じょうしょうじん)」が大事と教えます。また、

                儒教などの聖(せいけん)の教えでも、常に学び、身を修める努力をつづけ

                ることの大切さが説かれます。それは、人間の心の成長に「これでいい」

                という終わりがないからでしょう。

                 一般に仏道は、「この上なくすぐれた道」という意味で、「無上道

                (むじょうどう)」といいます。ただ、私はこの言葉の意味も「たとえ悟ったと

                思っても、そこがこの道の終点ではない。智慧に目ざめる可能性に、際限

                はないのだ」と受けとめるほうが、向上をめざす活力が湧いてくるように

                思うのです。

                 だからこそ常精進が大切なのですが、私たちはつい「少しくらいサボっ

                ても」といった思いに負けてしまいます。

                「嬾惰(らんだ)の意(こころ)及び懈怠(けだい)の想を除き 諸の憂悩(うのう)を離

                れて 慈心をもって法を説け」とは、法華経「安楽行品(あんらくぎょうほん)

                の一節です。だれもが抱く、サボりたいとか飽きたという気持ちを釈尊も

                よく理解されていたのでしょう、「心の内から湧いてくるさまざまな誘惑

                や迷いをふり払い、安らかな心で、みずから楽(ねが)って、喜びのうちに精

                進できるように」と、釈尊は私たちにこの品を説いてくださったのだと思

                います

                 

                 『待っている人がいる』の段落では

                 

                 「学んで時に之(これ)を習う。また説(よろこ)ばしからずや」。孔子の言葉

                です。子どもが大人を見て「あのようになりたい」と思い、その真似を繰

                り返すように、目標をもって学び習うとき、それが楽しくて仕方なくなる

                という意味です。

                 このことは、信仰の世界にもいえます。「笑顔を心がけよう」「感謝を

                忘れない」・・・など、なんであれ、日々の目標や信仰の目的が自覚でき

                れば、あとはその思い(心)を貫くための精進を繰り返す(習う)だけで

                す。それが「習慣」となって身につくことで、喜びはさらに増します。

                 そう考えると、自分がなぜ信仰しているのか、なんのために日々精進す

                るのかという、目標や目的をつかむことが、喜びのうちに精進する基本と

                なるのでしょう。

                 しかし、それがわかっていてもなお、内心の誘惑に負けてしまうのが人

                間です。ただ、迷うのも楽をしたいと思うのも自然なことで、ときには心

                の逃げ場も必要だと思います。そのとき、目的や目標を忘れなければいい

                のです。

                 また、たとえば読経供養にしても、サンガ(同信の仲間)の集まりにし

                ても、決めたことだからといって無理をすることがいいとは思えません。

                体調がすぐれなかったり忙しかったりして疲れたら、休んでいいのです。

                精進をつづけるためにも、無理は禁物だということです。

                 「安楽行品」には、「一切を慈悲して 懈怠の心を生ぜざれ」ともあり

                ます。人を思う気持ちが盛んなときは、飽きたり怠けたりする心が生まれ

                ないというのです。どれほど疲れていても、わが子のために労を惜しまな

                い母親の姿が思い起こされますが、それはつまり、「自分を待っていてく

                れる人がいる」と思うとき、人は自己中心の思いから離れ、その人の役に

                立ちたいという願いが湧いてきて、精進の一つ一つが喜びや楽しみに変わ

                るということでしょう。

                 日本だけでなく、世界がさまざまな困難に見舞われています。「慈心を

                もって法を説け」とありましたが、みなさんのまわりには、あなたを待っ

                ている人はいませんか。

                 

                 と、締めくくられた。

                 

                 コロナ終息に向け、世界全体が一つになって努力しています。まさしく

                「コロナ菩薩」のおかげさまで世界がその一つの目的に向かって協力する

                ことが素晴らしいことと思います。

                 今月も会長先生より、「安楽行品」を通して「心の中から湧いてくるさ

                まざまな誘惑や迷いをふり払い、安らかな心で、自ら楽って、喜びのうち

                に精進できるように」との釈尊の思いをしっかりと受けとめ、私たちを待

                っていてくださる信者さんにお伝えさせていただくことをご指導ください

                ました。

                 今、おかれた場所(道場)で、自分にできる菩薩行をそれぞれ工夫して、

                今月もしっかりと精進させていただきましょう。

                                              合掌

                 

                                                                               立正佼成会 姫路教会

                                               たかとし

                                          教会長 吉 田 高 聡

                 

                 

                 

                 

                                                                  


                令和2年5月度 教会長のお話

                0

                   令和2年5月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、

                  文末に感じたことを書かせていただきます。

                   

                   今月は、『悠々として、心安らかに』というテーマを、

                   ○ 妙好人・石見の善太郎  ○ 楽しく仏道を歩む 

                   の2段落でご解説いただいた。

                   

                   まず、『妙好人・石見の善太郎』の段落では、

                   

                   現在の島根県浜田市に、近重善太郎[ちかしげぜんたろう]という妙好人[みょうこうにん]がいました。江戸時代の、終わり近くのことです。

                  妙好人というのは、白蓮華[びゃくれんげ]にたとえられるほど清らかな人柄の、信心深い念仏者のことです。若いころは素行が悪く、村人から「毛虫の悪太郎」と呼ばれていたその人が、やがて阿弥陀さまの信仰に目ざめ、多くの人から「石見[いわみ]の善太郎さん」と敬愛されるようになったのです。

                   ある日、その善太郎を信仰仲間が訪ねてきました。本山参りの際に一泊させてくれた同朋で、善太郎は笑顔で迎えますが、その人はいきなり善太郎をどろぼう呼ばわりして、激しく罵ります。着物を盗んで持ち去ったというのです。

                   すると善太郎は、身に覚えがないにもかかわらず、「それは悪うございました」と丁重に詫びて、着物の代金を渡したうえ、「何もありませんが、せめて草餅をおうちの人に」と、仏壇に供えた草餅を包んで土産に持たせました。

                   信仰仲間が家に帰って、みんなで草餅を食べようとした時です。その家で働く娘が、なぜかうつむいたまま、手にもとりません。「どうして食べないのか」。主人がそう尋ねると、娘は「善太郎さんが盗ったと話しましたが、あの着物を盗んだのは私です」と、罪を打ち明けたのです。

                   さて、もしもみなさんが善太郎さんと同じ立場におかれたら、この事態をどのように受けとめ、対処するでしょうか。

                   

                   『楽しく仏道を歩む』の段落では

                   

                   この話のように、やみくもに人を非難したり、人の話も聞かずに自己主張したりする人には、できれば会いたくありません。まして、どろぼう扱いされたりすれば、冷静に受けとめられないのがふつうです。

                   その意味でも、善太郎さんの対応には感心するばかりですが、では、どうして何も釈明しないまま、善太郎さんは事態を受け入れることができたのでしょう。

                   私は、「阿弥陀さまにすべてをおまかせしている」という、善太郎さんの絶対的な「信」によるものではないかと思います。「やましいことは何もない。仏さまはすべてご照覧[しょうらん]なのだ」。そうした、悠々[ゆうゆう]として安らかな気持ちがあればこそ、あのように受けとめることができたのでしょう。

                   「いう人もいわれる我ももろともに 同じ蓮[はちす]の台[うてな]なるらん」という道歌がありますが、仏の前ではすべての人が平等ですから、その場で身の正しさを申し立て、相手をやりこめるのはつまらないこと、と考えたのかもしれません。

                   法華経の「勧持品[かんじほん]」に「我身命[われしんみょう]を愛せず 但無上道[ただむじょうどう]を惜しむ」という言葉があります。信仰者の強い意志を示す一節ですが、この言葉は、命さえ惜しくないという意味だけではないと思います。いま、この地球に生まれて生きている奇跡に気がつけば、「自分さえよければいい」と自己に執着している場合ではない、生かし生かされあう縁[えにし]に感謝することが大事なのだ、という意味にも受けとれます。

                   「但無上道を惜む」は、そのような感謝に目ざめたら、一人でも多くの人と感謝の気持ちを共有しよう、ということではないでしょうか。法華経の教えによって感謝に目ざめた私たちであれば、その教えを人に伝え、生きる喜びと感謝をともどもに味わおうと、一歩を踏み出すことです。

                   ただ、それは相手を変えようとか、説き伏せようとするものではないと思います。喜びをもって仏の教えを実践し、人びとと心楽しくふれあうなかで、いま命あることの有り難さに目ざめてくれる人がいれば、それでいいのです。

                   先の善太郎さんの話は、「草餅説法」といいます。娘さんの心を解かした妙好人のあたたかさに、悠々として、心安らかに生きる信仰者の神髄を見る思いがします。

                   

                  と、締めくくられた。

                   

                   今、世界中が「コロナ」の終息に向かって、取り組んでいます。それぞれの立場の方々が一所懸命努力しておられます。

                   特に医療従事者の皆さんの努力こそ「我身命を愛せず」との菩薩の姿に思え、合掌せずにはおられません。仏さまの教えによって救われた我々は、その感謝を、今こそ三宝帰依の精神に込めて、仏さまへの絶対なる「信」を深めるべく、悠々と「即是道場」の会長先生のご指導を実践してまいりましょう。

                                                合掌

                   

                                                                                 立正佼成会 姫路教会

                                                 たかとし

                                            教会長 吉 田 高 聡

                   

                   

                   

                   

                                       


                  令和2年5月度 姫路教会行事予定

                  0

                      新型コロナウイルス(COVID-19)の対応につきまして

                     

                    ※ 4月16日に、安倍総理大臣が全都道府県に対し緊急事態を宣言し、

                      外出自粛を始めとする緊急事態措置の要請を行いました。

                     

                    ※ これを受けまして、姫路教会及び但馬道場を6月15日(月)まで

                     

                      完全閉鎖体制に移行致します。

                      

                    ※ 新聞・機関誌等の発送については、6月末まで発送を中止致します。

                     

                    ※ 但し、事態に進展が見られなければ再延長する場合もあります。  

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     


                    令和2年4月度 教会長のお話

                    0

                       令和2年4月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、

                      感じたことを書かせていただきます。

                       

                       今月は、『偏った見方を越える』というテーマを、

                       ○ 「自分は正しい」という偏[かたよ]り、○ 仏性をひたすらに信じる 

                       の2段落でご解説いただいた。

                       

                       まず、『「自分は正しい」という偏り』の段落では、

                       

                       ふつう私たちは、自分の考えや行動が間違っているとは思いません。人から「それは一方的な見方ですよ」と指摘されても、自分が、先入観や色眼鏡でものごとを見ているとは考えないものです。

                       それでも、たとえば自分にいつもやさしくしてくれる人の言葉は素直に信じられても、批判的な人の声は端[はな]から否定するのではないでしょうか。自分の感情や都合を大事にするそういう見方や受けとり方を、私たちは多かれ少なかれしていると思います。これはいうまでもなく自己中心の狭い見方です。この見方が高ずると「私の考えが正しい」「自分の判断は間違っていない」といったとらわれや偏見が強くなって、ものごとを正しく見る目がさらに曇ります。

                       そこで、そういうものの見方を省みるとともに、自己中心に偏りがちな視野を大きく広げる動機づけともなる、法華経の一節をご紹介しましょう。

                      「等正覚[とうしょうがく]を成じて広く衆生を度[]すること、皆提婆達多[みなだいばだった]が善知識[ぜんちしき]に因[よ]るが故[ゆえ]なり」(私が仏の悟りを得て人びとを救えるのは、すべて提婆達多という善[よ]き友のおかげです)

                      「提婆達多品[だいばだったほん]」の有名な言葉です。自分を敵視して殺そうとまでした提婆達多のことを、釈尊が感謝の思いをこめてサンガに伝える重要なくだりですが、これは私たちが、偏った見方から大きな見方へと心を切り替える、スイッチのような役割をもつ一節でもあると、私は受けとめています。

                       

                       『仏性をひたすらに信じる』の段落では

                       

                       明けの明星の輝きを受けて、釈尊は悟りを得たといわれます。そのとき釈尊のみ心は、おそらく明星輝く中天[ちゅうてん]にまでのぼり、宇宙と一体となって、大いなる真理をつかまれたのです。

                       それは、宇宙的視座でものごとを見たということかもしれませんし、明星の輝きが自他の仏性の輝きと重なったということかもしれません。いずれにしても、そのとき釈尊の目には、何もかもが美しく光り輝く仏性そのものという、この世の実相[じっそう]がありありと映ったのではないでしょうか。

                       そして釈尊は、提婆達多からの非難や攻撃という厳しい現実に直面する中でもまた、心を天にのぼらせて、広く大きな心で提婆達多と向きあったのだと思います。

                       すると、その瞬間に「自分を害する悪い人」と見る自己中心の心が、スッと仏性を信ずる大きな心へと切り替わり、すべてに合掌・礼拝[がっしょう・らいはい]せずにはいられなかった ―― そういう心の切り替えをうながしてくれた提婆達多は、釈尊にとって「善知識」以外の何ものでもなかったといえるでしょう。

                      「みんな仏性」という見方に立てば、偏った見方で人を傷つけたり、争ったりすることはありません。人を批判する前に、「そうか、あの人も仏性なのだ」と思い返すきっかけがあれば、偏った見方をして悩むこともないのです。

                       ただ、誤解されやすいのですが、仏性を信じるというのは、相手のいいところを見ることではありません。相手をまるごと仏性として拝むことです。すべての仏性をひたすらに信じるなかで、私たちは矛盾や葛藤とも向きあい、人として成長していくのだと思います。毎田周一[まいだしゅういち]師は、「信ずる」ことについて「世には自分が相手を疑っていて/相手が自分を信じないと/小言を言っている人がある」「自分が人を信ずることによって/相手を信じさせること ―― /これを信の大道という」といっています。

                       よけいな先入観などをもっていなかった幼いころには戻れませんが、せめて花まつりの日に、釈尊降誕[ごうたん]のお姿を彷彿とさせる誕生仏に接して、純真無垢な心をとり戻し、自他の仏性を深くかみしめることは大切でありましょう。

                       

                       と、締めくくられた。

                       

                       今月は釈尊降誕月です。お生まれいただいたおかげさまで、諸法実相の真理をお悟りいただき、人としての実相は仏性であることをお示しいただきました。

                       提婆達多品では「悪人成仏、女人成仏」が説かれています、すべての人間が等しく仏性をそなえ、その自覚に立てば、みんな救われることをお示しくださいました。 

                       まずは自分の仏性をしっかり自覚し、そして、触れ合う人のいいところだけでなく、すべてを仏性として信じ、拝んでいく、常不軽菩薩[じょうふきょうぼさつ]の姿勢で布教伝道に取り組みましょう。

                                                    合掌

                       

                                                                                     立正佼成会 姫路教会

                                                     たかとし

                                                教会長 吉 田 高 聡

                       

                       

                       

                       


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